現場から問題を汲み上げ、ネットワークを作り、協働を生み出す
災害ボランティア論入門(弘文堂、2008年11月) 第6章 情報とつながり

中川和之 時事通信社編集委員

第1節 災害ボランティアと情報

1……災害と情報とボランティア

 人は、普段から多くの情報を得ながら生活している。スーパーの安売り情報やオリンピック選手の話題をいどばた会議のネタにし、テレビのお天気番組で傘を持っていくかどうか決め、ニュースや携帯メールで電車の運行情報を知って早めに出勤したりしている。受験や就職、転居などの人生の転換点には、より多くの情報を得ながら、意志決定を行っているのが暮らしである。それらは整理された情報になっていない場合もあるが、自ら調べて判断し、行動に役立てているわけである。
 災害という異常事態には、人はより多くの情報を必要とする。変化のない普段の生活であれば、例えばお店の定休日は一度覚えれば変わらないし、通勤電車も乗る時刻は決まっている。災害時には、情報を得て、何らかの行動を取るための意志決定をしなければならなくなる場面が山ほど出てくる。しかもそれらの情報は、普段は不要で日常的には意識しなくてもいい情報であることも多く、いざというときにそれらの情報は容易に手に入らないし、情報として収集・整理されていないことも少なくない。平時には機能している情報を集めたり提供したりする仕組みが、災害によってダメージを受けていることもある。

 このため、被災地の住民に対しては、さまざまな方法で情報が収集され、さまざまメディアで届けられることが求められる。住民に対する災害対策に当たらねばならないのは主に市町村だが、大災害になればなるほど情報面の手当ては後手に回る。
 現代社会でこれまで立ち向かったことのない大災害となった阪神大震災では、試行錯誤しながらさまざまな支援策が展開される中で、さまざまボランティア活動が情報に関わる場面で展開された。災害によって生じる社会の隙間を自発的に埋めるのは、ボランティアならではの働きである。IT化が進む中で、パソコンやインターネットなどを使った活動が「情報ボランティア」と言われるようになったのも、阪神大震災からである。
 泥出しや片付け支援など、さまざまな労務提供型のボランティアと、そのコーディネートのためのボランティアセンターの活動が定着する中で、情報を集めてきたり、提供したりすることも、ボランティア活動の中に位置づけられてきている。
 さらに、平時に地域防災力を向上させる減災への取り組みでは、情報を伝えて備える行動を起こしてもらうための支援活動も、災害ボランティアの活動メニューの中に含まれてきている。行政が、その役割として伝えるより、被災地の支援などを通じて災害について身近な目線を持つボランティアが伝える立場に立つことで、より説得力が増すといえる。

2……「生き残る」「生き続ける」「暮らしを立て直す」そして「備える」ために

 被災地の住民が必要とする情報は、どこまでの事態に遭遇するかで異なってくるが、時間的な経過を追うと、(1)生き残るための情報、(2)生き続けるための情報、(3)暮らしとまちを建て直す情報−というように考えることができる。さらに、(4)平時に備えるための情報も重要になる。これらとボランティアの活動とはどう関係するのであろうか。

(1)生き残るための情報
 生き残るための情報は、災害情報の分野で以前からさまざまな調査研究が行われている(田中他2007)。適切な避難行動を促すための、緊急地震速報や津波警報、気象警報、避難勧告や指示などは、気象庁や自治体、マスメディアから伝えられる。この段階では、外部からのボランティアが直接、役割を果たす場面はほとんど考えにくい。
 ボランティアを志す人自身が、自らの身の回りで災害が発生した際、周囲の人たちと共に生き残るために、これらの緊急情報について理解し、適切に対応できる知識を持っておくことは、当然のことながら必要である。気象庁からは近年、緊急地震速報だけでなく、噴火警報や土砂災害警戒情報、竜巻注意情報など、次々に新しい情報が出されている。これらの情報の住民への周知は十分図られているとは言えないが、自主防災に関わる地域住民だけでなく、ボランティアも情報周知を図るターゲットと考えられるべきであろう。災害のボランティア講座で、これらの情報を知ることがメニューとして含まれていることが少なくないのも、ボランティアの活動と言うより、自分が被災者となる恐れがある際、適切な行動が取れるようになるためだ。
 地元で被災した際、消火器の使い方など初期消火の方法や心肺蘇生法、けが人の搬送法などから始まり、近所の要援護者らの避難や救出を行うための情報は、町内の自主防災組織などでの備えが不可欠だ。
 自らの安否を周囲に知らせるために、災害時伝言ダイヤル171や携帯電話の災害用伝言板などの使い方も知っておく。安否情報を伝えるための情報メディアでは、阪神大震災では、赤枠の伝言カード60万枚が大手広告代理店の企業ボランティアで作成され、地震5日目に被災地中に配られた例もある(吉井2008)。
 また、地震後の建物での二次災害を防止するための応急危険度判定は、日本では阪神大震災で初めて行われた専門家ボランティアだ。講習を受けた建築士が、余震で建物が倒壊するなどの危険性を判定し、その結果を赤や黄、緑の用紙に記入して建物に貼り付けていく。全国で約10万人の判定士が登録されており、新潟県中越地震や能登半島地震などで活動してきた。建物の被災度を調べて危険度という情報にするボランティアで、同様な活動では被災宅地危険度判定士や斜面判定士などもある。これらは、阪神大震災後、専門家団体が、関連団体を所管する省庁と共に作り上げてきた、専門情報を直接住民に生かすボランティアだ。

(2)生き続けるための情報
 被災した後、生き続けるために必要な情報は、生活の拠点である家屋の安全性情報だけではない。阪神大震災では、コラムで取り上げた「デイリーニーズ」だけでなく、避難所単位などで開いている商店や風呂屋など被災者にとって役立つ情報をまとめて提供する活動が、ボランティアによって行われ、その後の災害でもボランティアの重要な活動メニューになっている。
 水や電力、ガスなどのライフライン、鉄道や道路など交通網に関する情報をきめ細かく届ける手段は、事業者などの努力で阪神大震災のころに比べて充実してきた。避難所で住民に情報提供を行うのは、設置者である行政の役割とされ、そのためにテレビやラジオだけでなくパソコンやFAXなどの情報機器が、災害救助費で設置できることが明記されている。ボランティアが避難所支援に入るケースでは、これらの機器も活用した情報支援がボランティアの役割ともなる。当事者ではない第3者という立場だからこそ、客観的に情報収集し、発信しやすいということもあるだろう。阪神大震災での外国人支援ボランティアから始まったミニFM局の放送は、有珠山噴火での官民連携の臨時FM局開設に繋がって、新潟県中越地震や中越沖地震では、既存の地域FM局が重要な役割を果たした。ボランティアが始めた情報支援が、地域FM局の存在意義を明確にし、各地で公的な仕組みとなって定着している。
 ボランティアセンターからのミニコミが、被災者に役立つ情報紙の役割を果たすことも少なくない。1998年の福島・栃木豪雨の際、那須町水害ボランティアセンターで発行した「ガンバーレ那須」は、住民からボラセンに問い合わせがあるゴミの片付けかたや農協保険の支払い、お風呂情報などの情報を掲載し、自治体の協力も得て全戸配付されている(森下2002)。
 地震の後に、家屋内に入って家の中の片付けを支援したり、引っ越し支援で荷物出しをするのは、定番的なボランティア活動だが、この際に建物の中に入る危険性についての情報は重要になる。ボランティアセンターで被災地住民からのニーズを受け付ける際、「危険」(赤)や「要注意」(黄色)の判定をされた住宅へのボランティア派遣は、二次災害防止を理由に断るのが一般的になっていた。ただ、実際には瓦などの落下物で危険や要注意と判定された後に、危険性が除去されているケースもあり、2007年の新潟県中越沖地震では、建築の専門家がボランティアセンターと共に活動し、要注意と判定された家屋に入っての活動が可能かどうかを見極めて、危険とされた建物の安全性情報を伝えている。現在は、直後の危険度しか判定しない応急危険度判定の欠点を補う活動とも言える。
 これらの情報支援は、被災地に足りない仕組みを自律的に生み出せるボランティアならではの活動だ。
 一方で、ボランティアが活動するためには、行政や専門機関などの支援対策や、ボランティア団体同士の横の情報も重要になる。阪神大震災の西宮市や能登半島地震の輪島市などで、行政の災害対策の会議にボランティアがオブザーバー参加していたが、ボランティアに必要な情報は、関係先に問い合わせても充分に入っては来ない。災害対策の関係者が調整をする場面に直接参加して取りに行くことで、必要な情報を得ることができる。

(3)暮らしとまちを立て直す情報
 災害後は、取りあえずの被災暮らしをつないでいけばよいわけではない。公的な支援なども受けながら、それぞれの暮らしの再建を、まちの復興を図っていかねばならない。仮設住宅への入居や自営業の再建支援、復興まちづくりの各種事業などの大半は、自治体によってプログラムされ、多くの情報は自治体から提供されることになる。
 阪神大震災では、西宮市の広報紙が地震から1週間目に配付され、神戸市では9日目にたった2000部を避難所周辺などに掲示したのが精いっぱいだった。神戸市の第1号には、仮設住宅の申し込み方法が記載されたが、住民の間では「申し込みは先着順」、「運転免許証が必要」などの不確かな情報が飛び交った。これらの反省を、行政としての支援活動に活かしたケースが、新潟県中越地震の際、東京都練馬区が行った川口町への広報紙作成支援である。状況を判断して自発的に申し出た行政ボランティア活動だ。最初は、練馬区広報課の職員が取材して作成したが、広報紙の発行で災害対策上の有用性に気付いた町職員から次々に情報が集まるようになったという。
 甚大な被害に対応するため、さまざまな復興まちづくりの支援が行われた阪神大震災では、普段はまちづくりのプランナーや行政の担当者が知っていればよい都市計画関係のさまざまな事業について、一人一人の住民だけでなく、地域全体での意志決定が必要になった。このため、研究者やプランナーたちが専門家ボランティアとして住民の立場にたって難しい制度を分かりやすく伝える努力を重ねた。神戸市長田区に拠点を起き、復興まちづくりを支援した「まち・コミュニケーション」は、専門家とまちの人たちの間の通訳的な立場でもあった。これも情報支援の一つと言える。
 阪神大震災や中越地震の経験を経て、能登半島地震や岩手・宮城内陸地震では、外部の災害ボランティアが関わって復興まちづくりのプロジェクトが動いている。人のつながりをいかして、他の災害の経験者を被災地に呼んできてフォーラムを行ったりするのも、まだ形式知にまで整理されていない情報を伝える一つの手段だろう。

(4)平時に備えるための情報
 消防のキャッチコピーである「予防にまさる防火はなし」をもじって「予防にまさる防災はなし」という言い方が良くされる。しかし、地震災害の最善の予防策が、揺れに備えた耐震補強に家具固定であることが通り相場になったのは、阪神大震災の発災から10年近くたったほんの数年前から。それまでは、揺れて壊れてしまったり、ヘタをすると命を失っているかも知れないのに、火の始末や非常持ち出し袋、水・食料が地震の備えとされていた。
 災害現場での支援を前提に活動していたレスキューストックヤードが、事務所のある地元町内会の耐震診断や家具固定と向き合いだしたのが2002年9月。地域の備えを考えるワークショップや避難所体験を行い、これをきっかけに簡易耐震診断と独居高齢者世帯の家具固定事業も始めた。平時にボランティアセンターをどう作るかという取り組みが中心だった災害ボランティアたちにとって、活動内容のコペルニクス的転回だった。繋がりのある大学の専門家らの支援を受けながら、実際の災害現場での経験を生かして地域に説得力を持って備えの情報を伝え、実践を生み出す活動を始めていった。
 同じ年に東京に誕生したNPO法人東京いのちのポータルサイト(いのポタ)は、立ち上がり半年で耐震化促進に特化していき、07年には「日本耐震グランプリ」で内閣総理大臣賞まで出すに至っている。この活動を支えたのが「CD説法師」と呼んでいる耐震補強の重要性を訴えるプレゼン資料である。自治体の担当者や研究者らも支援はしたが、プレゼンに作り上げたのは非専門家のNPOメンバーであった。さまざまな専門情報を、普通の人に説得力を持って伝えられるように素人集団で編集したのである。今では、地域の災害ボランティア組織が、自分たちの学習だけにとどまらず、地域の耐震化や家具固定などの備えを促す情報提供の活動に取り組む例は珍しくなくなってきている。

3……情報を取りに行く、価値を創り出す

 災害時に、再開した風呂屋などを住民に伝える情報提供も重要だが、被災地の住民はどういう状況にあるのか、どこでどんなボランティア活動が求められているのかを把握するために必須のニーズ情報の集約は重要な作業だ。それは黙っていてボランティアセンターに届くわけではない。適切な支援を作りだす情報は、適切なニーズ調査から始まる。水害直後のボランティアなら、家屋の中からの泥出しや片付けの要望が中心となり、町内会などを通じてそれらのニーズを集めればいいかもしれない。応急的な対応が一段落すると被災者のニーズは多様化するし、「支援が必要な人ほど情報の発信力、受信力が弱いものだ。情報は待っていても入ってこない」(藤原雅人・元被災者復興支援会議事務局次長=兵庫県職員)のである。一方で、すべてのニーズに求められるまま応じるのが適切ではないのは言うまでもない。
 ポストイット方式など、ボランティアセンターでのコーディネート方法はある程度標準化されているが、ニーズをどのように集めてくるかは、依然として試行錯誤のようにみえる。これは、災害の種類や被災程度の違い、被災地コミュニティの特性の違いなどもあり、決定打は難しい。ただ、はっきりしているのは、情報は現場にあると言うことである。電話や書類で上がってきた情報も、現場で確認をしてこそ確かなものになる。「ニーズを聞いて現場に行ったら、思ってもなかった危険な作業だった」というようなことがないよう、「ボランティアが勝手に頼んでもいないことをやった」と言われないよう、ニーズ情報を適切に取り扱うことが重要になる。情報は現場に取りに行くことが基本なのだ。一方で、何でもボランティアでやろうとするのではなく、支援が必要な人の聞こえない声を聞く手段として、足湯ボランティアが役立つと言われている(3章で紹介)。足を湯に浸しながらの手などのマッサージをするというボランティアは、阪神大震災のころから徐々に広がり、学生だけでなく若い修行中の僧侶も加わって、ここ数年は定番となって取り組まれている。ゆっくりとした気持ちで語られる被災地住民のつぶやきに、失ったことの大きさと共に、傷ついた地域で難局に立ち向かう強さが含まれていたりする。これらの弱さと強さを現場から拾い出すのも、ボランティアの働きである。その情報を、報告会などで被災地外に伝えるということも、また役割である。

 ボランティアたちが、被災者の支援制度の充実を求める活動も、現場の情報の中から生み出されてきた。制度を生み出すためには、既存制度の理解が重要だ。めったにない被災後の支援制度の枠組みは、自治体でも十分把握できていない。後述する「震災がつなぐ全国ネットワーク」(震つな)が、発足して以来継続している「KOBEの検証シリーズ」と題したブックレットで、04年に「法律編」、07年には「避難所編」が編集され、ボランティアの立場で必要な知識をまとめている。
 能登半島地震から1年で、ボランティアの手で出版された写真集「いとしの能登よみがえれ!=ボランティアの能登ノート」(村井・中山2008)は、1年間、被災地に通ったボランティアの目から見た能登半島の魅力を伝える観光ガイドブックにもなっている。地域にまで入り込んで支援をしたボランティアだからこそ地域の魅力が見える。裏表紙の「被災が、改めて地域の良さを再発見させる」とのコピーは、どの災害にも通用する言葉だ。ヨソモノだからこその価値発見であり、それを伝えて被災地の魅力をPRするのも復興に向けた情報面での支援といえるだろう。

【参考文献】
田中淳,2007「災害情報と行動」大矢根淳・浦野正樹・田中淳・吉井博明編,2007『災害社会学入門』102-107頁 弘文堂.
吉井正彦,2008「学会NLきっかけに、震災の赤枠伝言カードの送り主明かす」『日本災害情報学会News Letter』No.33.
森下亮,2002「被災地におけるミニコミ誌の役割」『情報があるぞう 考えたぞう』震災がつなぐ全国ネットワーク.
レスキューストックヤードホームページ「地域防災」
村井雅清・中山雅照,2008『いとしの能登よみがえれ!−ボランティアの能登ノート』震災がつなぐ全国ネットワーク.

第2節 ITの可能性と限界──つながりをつなぐ

1……阪神大震災が生み出した「情報ボランティア」

 阪神大震災当時のITを取り巻く環境は、Windows-OSの登場などでパソコン人口が増えつつあった時代だった。NIFTY-ServeとPC-VANの2大ネットを中心にパソコン通信の会員が200万人を超え、趣味やスポーツからビジネスまでさまざまな分野の電子会議室でやりとりをしていた。ROM(リードオンリーメンバーの略)と言われる非発言者も多かったが、電子ネットワークの世界の新参者に対して先輩たちが「ネチケット」と言われるルールやマナーを伝えることが推奨され、IT系ネットワークを創り出していこうというボランタリーな雰囲気がまだ色濃く残っていた時期であった。
 一方、大学研究者などだけの閉ざされた世界だったインターネットと、パソコン通信が相互接続できるようになったのも、1994年からだった。多くの人が、多くの組織が、被災地のために、その立場で最大限できることをやろうとしたのが阪神大震災であり、電子ネットワークの世界から、被災地を支えようという動きが出てくるのは必然でもあった。
 パソコン通信では、NIFTY-Serveのログだけを見ても、建築、土木、法律、保険、地球科学など、既存の電子会議室で地震当日から情報のやりとりが始まっている。パソコン通信事業者も地震情報のメニューを作り、犠牲者名簿から行政の支援メニュー、交通情報、各種の問い合わせ先などを掲載するだけでなく、震災ボランティアのための電子会議室や、インターネットとの情報共有の仕組みも作られていった。
 地震から1週間後には、避難所を取材して回り、物資や人手の過不足、ライフラインの復旧情報、交通状況などを同一のフォーマットで共有する試みも始められ、被災地外にいてもマスコミに報道されない実情がつかむことができた。ボランティアの募集状況や企業の支援活動、生活情報なども扱われていった。これらの活動が「情報ボランティア」と言われた。ネット上での活動が主になるため、情報をやりとりする電子会議室などの場ごとなどで、いくつかのグループが作られていった。
地震から1カ月たって、避難所への情報提供システムとして、企業から提供されたパソコン200台が通産省と郵政省から兵庫県を通じて避難所に入った。これをきっかけに、避難所を巡回してパソコン通信の使い方をサポートするボランティアも行われたが、有効に使われたケースは少なく、段ボールに入ったままのパソコンの撤去を求められたこともあったといい、利用者は一部にとどまった(作山1996)。まだ携帯メールなどが登場する4年前である。
 これらを支えるボランティアは、学生を中心にした若者だけでなく、IT系の企業や研究者らも関わって、人の繋がりを創り出していた。パソコン通信は、ハンドルネームと言われる仮名を使っていても、パソコン通信事業者に登録する手続きが必要で、その後のインターネットのような発言者の匿名性はなく、ややクローズドの世界で、ネチケットなどの情報のリテラシーが共有されやすかったこともある。被災地のボランティア団体などを対象にパソコン通信の使い方講習なども行われ、リアルな現場活動の情報を共有したり、災害ボランティア活動のあり方などについての議論がネット上で行われることにつながった。
 当時の情報ボランティアからは、災害ボランティア活動の情報支援など災害に関わる活動以外に、災害以外のボランティア活動の情報支援や、パソコン教室やネットデイなど地域情報化支援などの活動が広がっていった。

2……インターネットで情報発信

 災害ボランティアと情報の関係は、情報システムの発展に大きな影響を受けている。大手パソコン通信事業者がインターネットの商用プロバイダーになり、Windows95も登場してインターネットが普及し始め、ネットの主役が閉ざされたパソコン通信から、電子メールやホームページに移っていき始めた1997年1月、日本海で重油流出事故があった。延べ28万人ともされるボランティアが、厳寒の日本海岸にべっとりと張り付いた重油を回収する作業を行ったが、このボランティア活動で、インターネットやメーリングリストが役立った。
 沖合に船首が漂着し、最も人を集めた三国町では、漂着2日後に開設された重油災害ボランティアセンターのホームページが当時としては異例の10万アクセスも集めた。ボランティアに来た人の1割がこのページを見ていたという調査もあり、ボランティア活動をしようとする人への注意事項や活動内容を伝えていた(山本1997)。また、運輸省や環境庁、石川県、福井県、輪島市なども、ホームページで事故対応を発信しており、役立つ情報のあるホームページのリンク集も作られた。
 また、この重油災害の際には、多くの専門家や行政の担当者、情報ボランティアらが、地元研究者が設置したメーリングリスト「oil-ML」に集まった。電子メールの利用者が増え、災害のボランティアたちも平常時からメーリングリストなどを通じて、情報交換をするのが徐々にあたりまえとなっていたが、この時には環境や救急医療、GIS(地理情報システム)など、さまざまの分野のメーリングリストに参加している専門家が集まったことで、現場で危険な溶剤が使われていることが分かり、行政の油の処理方針についてのたたき台の議論も行われた。
 残念ながら、極寒の日本海の海岸で行われた作業で、地域住民やボランティア5人の命が失われた。油漂着自体では人的な被害がなかったのに、回収作業で人命が失われたことにショックを受けたボランティア関係者は少なくない。また、きれいにすることを至上とし、環境負荷が油より高い薬剤なども使われていたし、活動をいつまで継続するかなどを巡って、応援組と地元との間であつれきも生じた。アラスカでの油流出事故の経験がある米国では、油回収のボランティアに一定の研修を義務づけているという情報も、専門家らも参加したメーリングリストでは早くから共有されていたが、現場のボランティア関係者に伝わったのは作業がほぼ終わった後だった。
 後日、立ち上げにかかわったコーディネーターが「今考えれば『すぐに現地に入るな』と言うべきだった」と語っている。実際、同じ年の7月、東京湾で起きた原油流出事故の際は、「被害を見極めろ」「あわてて動くな」「原油は重油より危険だ」「流出量は一桁少ない」などのメールがボランティア関係者の間を飛び交い、落ち着いた対応につながっていた。

3……情報システムリテラシーと情報リテラシー

 厚生労働省の「災害救助事務取扱要領」(2008年版)は、避難所にパソコンを置き、情報ボランティアとの連携で「機器に不慣れな」高齢者らにも多様な情報伝達手段を講じることを求めている。パソコンなどIT機器の使い方をよく知っているのが情報ボランティアだという書きぶりである。メールやインターネットなどIT機器の活用は、災害時のボランティア活動に不可欠であるのは間違いない。非日常的な事態がさまざまに起きている災害時には、多くの情報を適切に収集整理し、発信共有することは重要であり、そのためのツールとしてそれらが有効だからだ。まだ、IT機器が普及していない時代には、その面が、情報ボランティアとして位置づけられることが多かった。
 現在の災害ボランティアセンターの原形を作ったとされる1998年の東北、北関東の豪雨災害では、センターの中核を担った福島県や栃木県のボランティア団体が、日常からホームページを活用しており、積極的な情報発信がなされた。2000年の東海水害でも、地元の情報系NPOが発信の中核を担った。同じ年の鳥取県西部地震ではボランティアセンターのホームページ作成などを情報ボランティアが支援するなど、ホームページでの情報発信支援は災害ボランティアの活動メニューの一つにもなっていた。
 コラムでも紹介されているが、2000年の有珠山噴火で誕生した情報支援グループの「有珠山ネット」は、これらの活動が一つのピークを見せたものだった。一時避難を余儀なくされた地元のバラ農家による身の回りサイズの情報発信と、地元教育委員会の情報担当者による情報共有のための臨時のメーリングリスト開設から始まり、最盛期は20を超えるメーリングリストができた。登録者は500人以上で政府や自治体関係者も参加。北海道庁が、避難所にインターネット接続ができるパソコンを配備したことで、避難所の被災者が閲覧することを前提に、政府や自治体などの公的支援情報から交通情報、子ども向けの火山解説など、さまざまなコンテンツを数十人のメンバーが、ネット上で手分けをして作っていった。有珠山ネットには、地元北海道のNPO関係者やイラストレーター、哲学者など多様なメンバーが参画。阪神大震災以降の情報ボランティアたちもほぼ顔をそろえて、被災地住民に向けた多様なコンテンツを作っていった。
 ネット上だけでなく、配備されたパソコンを使って子どもたちが不健全サイトにアクセスするようなことがないよう、室蘭市教育委員会のプロキシサーバーを設定して回る支援も行った。避難所で実際にパソコンを使った人たちは15%程度(廣井2000)だったが、被災地の住民目線で、双方向に情報のやりとりができた初めてのケースといえる。多数ではないとはいえ、被災地住民と直接つながることができるメディアであり、霞が関の省庁や札幌の北海道庁でも書き込みがチェックされ、支援策に活かされていった。
 有珠山ネットでは、何人かの専門家が間接的に支援に関わったが、同じ年の三宅島噴火では、火山研究者が開設していた電子掲示板(平塚2002、千葉2006)で被災島民と専門家が直接やりとりを行うところまで至った。噴火した際の火山噴出物の状態や低温火砕流に巻き込まれた状況を島民が直接書き込み、掲示板読者だった島民たちは火山噴火予知連よりもリアルタイムに事態を把握し、全島避難の必要性を認識するに至っていた。
 情報ボランティアが社会で果たす役割について、1998年に開かれたシンポジウム「情報ボランティアって何?」で、干川は「より多くの人々や団体がパソコンやインターネットを利用して情報流通を行うのに必要な技術や、『情報の検索・収集、編集・加工、伝達技術』としての『情報リテラシー』を習得できるようにお手伝いするボランティア」(干川1998)とし、同じ場で水野は「普通にインターネットが使える(例えば電子メールが使える)」としながら「必要な情報を、分野を超えて繋げられる広い視野と関係性に対する感覚を持ち、同時に自分の専門性を持つという意味で、『専門性を持ったジェネラリスト』と呼べるだろう」(水野1998)としている。前者が情報システムリテラシーを、後者は情報リテラシーを語っており、有珠と三宅の事例は、まさにこの両方が機能した事例と言える。

4……ITを超えて、価値を生み出す

 写真と文章を容易に貼り付けられるブログの登場で、誰でもインターネットで簡単に情報発信ができるようになり、ブロードバンドでつなぎ放題も当たり前になり、特別な情報システムリテラシーが求められなくなった。災害時に、ボランティアが情報を扱うハードルは大きく下がってきた。
 以前は、行政やライフライン企業などがバラバラに出していた情報を、リンク集などを作って情報を整理するのが、ボランティアによる災害時の情報支援の役割だったが、今では誰でもどこでも行っており、災害時のホームページを見ると、リンク集だらけでオリジナルソースを探すのに苦労するほどだ。
 有珠山ネットが成功したのは、最初のホームページの主宰者の冨田は元報道カメラマンであり、記者である私も中心的に関わって、情報をたれ流しにするのではなく、避難所にいる被災者を想定読者に編集を行なったことが大きい。
 情報ボランティアの担い手は、ITビジネスに関わった人も少なくない。彼らの仕事もあって、かつては情報ボランティアが担わねばならなかった情報の整理などは、行政や鉄道事業者、ライフライン企業などが、住民目線での情報提供を行うようになってきている。「防災みえjp」は、県に入ってきた市町村や関係機関の情報がデータ処理しやすいxml型式にされてリアルタイムでホームページにアップされ、そのままデジタル放送の素材にもなる。ITリテラシーを活かしたボランティアの役割ではなくなっている。一方で、企業体による新たな情報ボランティアの事例もある。普段から練馬区という特定の地域にこだわった災害関連の情報を集約している「ねりま減災どっとこむ」だ。国や都の政策も、練馬区目線で整理したホームページは、区と協定を結んだ事業者がボランティアで作成している。住民という専門性を活かしたボランティアと言えよう。
 情報システムは、距離や時間を超えてこれまでつながらないことをつなげる可能性を広げた。大勢の人に情報を伝えるマス媒体は、新聞や雑誌、テレビやラジオなど商業メディアに限られていたが、インターネットはその制約をぶちこわし、大メディアとともに、個人のホームページも同じ画面でだれでも見ることができるようになった。
 インターネットは便利なツールだが、メディアは他にも多様にあり得る。第1節で紹介したコミュニティペーパーや、写真集は、被災者に役立つだけでなく、新たな価値も見出すこともできる。印刷物は、どこでも読みたいときに手で持って読めるという優位性がある。ワープロ打ちされた文字でなく、手書きの文字は、被災地でささくれ立った気持ちを優しくさせる効果もあるだろう。ITはさまざまな便利さを生み出したが、情報を届けるメディアが多様にあることを忘れてはならない。
 CATVや地域FM、タウン紙など、これまでのマスメディアとは違い、地域に根ざして市民との距離が近いプロメディアは、ボランティアとの協働相手としては最適だ。阪神大震災や有珠山噴火の際には、ボランティアの手で運営された災害時のコミュニティFM局も、自治体などの支援を受けながらだが、事業として成立したプロメディアに成長している。もちろん、ボランティア自身がすぐ持つことができるホームページやブログなどで、普段から情報発信をしていくのは当然のことだ。全国レベルから、地域レベルまで、さまざまな場で作られているメーリングリストで情報を得ると共に、自らも情報を提供していくことが求められる。情報を届ける相手に相応しいメディアを多様に選択して伝えるためには、メディアの選択も含めて伝える能力をどう高めるかも課題となる。「情報を出す所に、情報が集まる」(水野1998)のであり、それには出す情報が、手前勝手ではなく相手に届くだけの内容があることも求められるのだ。

【参考文献】
作山喜秋・干川剛史,1996「電子ネットワークの利活用を中心とする防災情報通信システム構想」(インターVネットユーザー協議会)兵庫ニューメディア協議会編『情報の空白を埋める−災害時における情報通信のあり方報告書』(資料18)142-152頁 神戸新聞総合出版センター.
山本葉子,1997「ナホトカ号重油流出災害におけるインターネット利用の推移と評価」『近代消防』7月号、8月号.
干川剛史・水野義之他,1998「情報ボランティアって何?」interCnetシンポジウムレジュメ
廣井脩,2000「有珠山噴火に関するアンケート調査(避難指示対象地域用)」
平塚千尋,2002「インターネット空間におけるジャーナリズム・試論『ある火山学者のひとりごと』を例に」NHK放送文化研究所『放送研究と調査』52.9号 2-27頁,日本放送協会.
千葉達朗,2006「三宅島2000年噴火と掲示板−ある火山学者のひとりごと」『月刊地球』,328号,vol.28,p.719-727海洋出版
冨田きよむ,2000「有珠山ネット 潮時」有珠山ネット
三重県,「防災みえjp」
秋山真理,2006「ねりま減災どっとこむ」

第3節 広域のネットワークをつなぐ情報

1……混乱する現場での調整がネットワークの始まり

 雲仙普賢岳噴火や北海道南西沖地震でも、災害ボランティアの活動が展開されていたが、災害の規模から継続的で広域の支援は行われてはおらず、広域ネットワークが課題にはならなかった。広域で大規模な災害となった阪神大震災で、日本の災害ボランティアは一気に広がった。主に阪神で活動をした団体・グループを中心に、多様な活動を行いながらネットワークを広げていった。米国赤十字や救世軍など全米規模の組織が、FEMA(米連邦緊急事態管理庁)とも連携して活動している全米災害救援ボランティア機構(NVOAD)のような、組織型ネットワークとは異なる発展の仕方をした。
 阪神大震災で活躍した140万人のボランティアは、何らかの団体に属して普段から活動している人は少数で、兵庫県の調査では7割が初めてのボランティアだった。災害救助法で特別に位置づけられている日本赤十字は、自ら組織している各種の奉仕団の調整で手一杯だった。既存のボランティア団体やNGO、社会福祉協議会、労働組合、生活協同組合、社会教育団体、スポーツ団体など、何らかの社会活動をしている団体の多くも被災者支援を行った。指示命令系統がある組織型の活動が中心になっていないため、それぞれが手の届く範囲で活動が行われていった。物資の偏在は当たり前で、ボランティアの支援が行き届かない避難所もあれば、目立つ場所には支援が集中するなど、市や区レベルでも全体を見渡した調整などはまったく行われていなかった。
 地震から半月前後で、海外への支援経験が豊富なNGOが中心になった神戸市長田区や東灘区、現場のリーダー層が豊富なボーイスカウトが中心になった西宮市などで、市や区の全域を視野に入れたネットワークが作られていった。神戸NGO協議会の草地賢一代表が関西でNGO活動をしていた団体を中心に呼びかけて結成した「阪神大震災地元NGO救援連絡会議」の初集会には、主に神戸市で活動していた既存の団体や現場の活動グループなどから約百人が参加し、各団体間の連絡・調整機能を強化し、救援活動を円滑に進めることを確認した。西宮市では、西宮ボランティアネットワーク(NVN、現日本災害救援ボランティアネットワーク・NVNAD)は、民間の救援物資をすべて任されるなどダメージを受けた行政の代替機能まで果たしていった(中川1995)。
 市や区レベルのネットワークや連絡会議の働きは、現在の災害ボランティアセンターのようにボランティアの受付やニーズとのコーディネートではなく、情報の共有が第1の目的だった。互いに、現場でどのような活動をしているのかの情報交換から始めていった。まず情報を共有し、それぞれの取り組みを知りながら、同じ問題に向かい合う中で、互いの考えかたを知り、得意技を知り、顔の見える関係となっていくなかで、ネットワークの実が育っていった。
 災害ボランティアが経験のない被災地で行う支援やアドバイスは、見方を変えると「自分たちの考えに従え」という押しつけにもみえ、それが過ぎると覇権争いとまで見られてしまう。阪神大震災では「次々と訪れる自称専門家のアドバイスは、『船頭多くして船沈む』に例えられる状況」(伊永2005)だった。いまでは国内外の災害救援には欠かせないNGOのリーダー仲間が、当時は背中合わせのような距離で活動をしていたのにも関わらず、互いに悪口を言い合っていたというのは今では笑い話だ。著者自身も、同じような体験をいくつも持っており不明を恥じるしかない。
 全国的なボランティア活動の実施団体や、学校教育・社会教育団体、青少年団体、経済・商工団体、労働団体、協同組合、マスコミ関係など、全国55団体(2006年6月現在)で構成されている「広がれボランティアの輪連絡会議」は、地震から5カ月後に出した提言で「継続的、効果的な支援活動の展開には、被災地の状況についての情報交換、お互いの活動の長所を補うボランティア団体同士のネットワークが有効」とし、それらが発展して「単なる情報交換のレベルに止まらないお互いの持ち味をいかした協働活動が行われた」としている。被災状況の情報交換をすることで認識を共有し、互いの活動プログラムの情報を交換することで互いの持ち味を知り、「餅は餅屋」の得意技を活かしていくことにつながったケースは少なくない。
 ボランティアを受け入れて、支援を求めているところに派遣するというコーディネートのための災害ボランティアセンターは、各地の災害で定着した。センターは、単なるコーディネート以上の役割を果たすこともでき、自治体単位で行政と連携して活動していくことができるようになった。一方で、複数の自治体でセンターなどができた際に、「地元NGO救援連絡会議」のような横の情報共有や連絡調整を目的とした場を設けるのは、あたりまえにはなっていない。国際救援の現場では、国連人道問題調整事務所(OCHA)が主催して各国からのNGOが現場で情報を共有するための連絡調整会議を開催するのが定番だという。
 国内の災害救援の方策が市町村ごとに異なるのは、被災状況だけでなく、地域防災への備えや構え、意識の差が大きい。ボランティアセンターの役割と限界も指摘されるなかで、被災者支援を行っていくには、自治体の壁を越えて現場での情報共有を行う場が、一定規模以上の国内の災害でも必要なはずだ。
 阪神大震災では、生活再建や復興のフェーズに入って数年間、地元紙の神戸新聞情報科学研究所が呼びかけて「オリンピックの会」という場が継続的に持たれていた。色の違う5つの輪が、少しずつ重なり合いながら一つの形をなしている五輪のように、すべてが重なるわけではないボランティアや行政、専門家がつどい、何かを決めたりするのではなく、互いの取り組みの情報を共有していった。この場での情報共有が、その後のさまざまなネットワーク的な活動の元になったともいう。

2……象徴的なイベントがつないだネットワーク

(1)ガレキキャラバン
 情報は、文字や映像などのメディアだけで伝えられるわけではない。阪神大震災の後、広域のネットワークができていく過程で役割を果たしたのがガレキだった。阪神大震災地元NGO救援連絡会議の仮設住宅支援連絡会(現被災地NGO恊働センター)が、被災地への後方支援を広げようと始めた全国キャラバンは、95年12月から1年半で全国100カ所以上を巡回した。そこで各地の人たちに訴えたのは、1.5トントラックに乗せたガレキだった。数十人の集会から数万人のイベントまで、屋内外の状況に応じてガレキを展示しながら、被災地の現状を訴えて回った。各地で受け入れ側にまわったのは、震災直後に全国から被災地を支援した後、それぞれの地元での取り組みを始めていた人たちだった。また、その過程で、高齢者や障害者、外国人などの問題は、被災地だけでなく「日本各地それぞれの問題でもある。その教訓を日本中の人々に伝えることが、私達の役割の一つ」(連絡会・村井)として、「欲しいのは情報……つなぐのは人」をキャッチフレーズに展開した。ガレキを前に、一方通行的に被災地の情報を伝えるのではなく、各地の状況を聞くという双方向で情報がやりとりされていった。
 何万人もの仮設住宅暮らしがあたりまえになって報道もされなくなり、風化が言われる中で行われた全国キャラバンは、被災地だけでなく、全国で支援を行っていたグループがそれぞれの地元で活動を続けるエネルギーになった。キャラバンの場で、被災地の状況を語り、全国のボランティアと交流を重ねたメンバーらが、その後のネットワークを支える中核になっていく。96年11月に、ガレキのキャラバンが訪れた先の団体が神戸に集まり、全国ネットワークの結成に向けて動き始め、97年11月の「震災がつなぐ全国ネットワーク」(震つな)発足につながった。

(2)1.17希望の灯り
 竹筒にろうそくを浮かべて火をともす「1.17KOBEに灯り(あかり)を」のイベントは、震災の犠牲者の鎮魂と希望の象徴として、地元ボランティア団体が中心になって97年から始まった。停電で街中が真っ暗だった時の不安や、電気が通じて明かりがついた時の安心感などを思い起こす官製のイベントが、クリスマスに向けて行われるルミナリエで、観光行事となって定着した。一方で、竹筒とロウソクの「灯り」イベントは、ロウソクを作ったり竹筒にメッセージを書いたりする市民の鎮魂行事として、被災地だけでなく、全国で行われ続けている。
 震災5年の際には、神戸の火をカイロで届けたり、竹筒を事後に竹済みにするなどの交流が17カ所に広がり、ネットワークの協働事業につながっていた。被災地の象徴として「神戸の火」が届けられ、それが各地のネットワーク団体が行う周年事業を意味づけていった。ガレキやロウソクの灯りが象徴的な情報となり、写真や映像、証言では伝えられないメッセージの共有につながった。

 NGO恊働センターが中心になって展開したタオルの「まけないぞう」も、象徴的な存在となった。救援物資の余ったタオルを元に、仮設住宅に住む人たちが手仕事で作るというコミュニティビジネスだったが、海外の被災地も含めて数万頭のタオルのゾウが心のキャッチボールをつないでいる。
 2000年に誕生した「全国災害救援ネットワーク」(Jネット)は、NVNの活動を母体に生まれた。行政との協働が「西宮方式」と称され、ボランティアだけでなく各地の自治体などでの講演要請が相次ぎ、行政、労組、企業など多様なセクターとの緩やかな連携を目指した。NVNでは、講演の場をそれで終わらせるのではなく、「飲みニケーション」などで意識して交流を重ね、ネットワークの核になる顔の見える関係をつなげていった。ガレキのキャラバンで全国に顔をつなげていったのと同じ構図で、ボランティア団体の中核メンバーという存在自体が、メディアであり、情報となって、繋がりを作っていった。

3……場の共有で全国ネットをネットワーク

 Jネットの発足母体は、被災直後の被災者・避難所支援で活躍した経験を共有しようとしたNVNだった。震つなは、生活再建支援の場面で活動し続けた仮設住宅支援連絡会を母体としており、活動時期的な違いもあった。このため、メンバーの一部は重なっていたものの、別のネットワークとしてスタートした。東京ローカルでありながら、全国的な団体も参加している「東京災害ボランティアネットワーク」(東災ボ)も、98年に発足していたが、これらの全国的なネットワークは、災害の救援で場を共有する中でつながっていった。
 98年の夏の福島・栃木の水害では、震つなやJネット(当時は準備会)に参加していた団体が地元にあり、そこが中核になってボランティアセンターを立ち上げ、全国のネットワークが支援に入っていった。コラムで紹介されているが、その年の秋にあった高知の水害では、地元のNPOと社会福祉協議会などが立ち上げていたボランティアセンターの支援に入った。そこでは、被災地で必要となる物資の見極めや、不足するボランティア受け入れのコーディネーターの送り込み、ホームページでの情報発信のサポート、水害での活動経験のある団体との連携調整、地元自治体との調整などをサポート。外部からは地元で不足する部分をサポートするにとどめ、主導権はあくまで地元というスタイルができていった。
 2000年の有珠山噴火の際には、3つのネットワークに経団連1%クラブ、有珠山ネットなども参加した「有珠山噴火災害ボランティア支援全国ネットワーク」が作られ、情報の共有と後方支援の調整を行った。その後、三宅島の噴火災害支援や東海豪雨災害などの場を経て、経験の共有と共通言語の獲得で、少しずつつながりが増えていった。
 全国のネットワークが、各地の災害を支援する中でつながっていった中で、都道府県レベルのネットワークの活力の維持などが課題だった。地元での災害支援経験があれば、一定のモチベーションも維持できるが、阪神大震災など外部への支援経験だけでは、地元に根付いた取り組みを発展していくのは難しい。
 コラムで取り上げた阪神大震災と日本海の重油災害で作られた三重県の防災ボランティアのネットワーク「NADみえ」は、研究者や行政マンと一緒に地域型図上訓練のDIGを生み出し、平時につながりを作りだす場作りに成功している。また、コラムでは紹介されていないが、NADみえの主要メンバーたちが作りだした災害時のボラセンの機能を、平時のイベント支援ボランティアで再現する「ハローボランティア」という取り組みもユニークだ。楽しいお祭りのお手伝いボランティアを、災害ボランティアセンターと同じ手法でコーディネートすることが、災害時の開設訓練にもなるという。地域型ネットワークが陥りがちな、センター開設訓練の繰り返しというあまり楽しくない平時のあり方を、わくわくする場に作り替えている。
 市区町村単位のボランティアネットワークであれば、レスキューストックヤードがいち早く取り組みだした耐震化促進や家具固定の啓発や実施などに取り組む団体も出てきた。「不幸を待っている」と言われかねない活動から、被害を減らす活動にシフトする中で、平時にもやりがいを生じさせてきている。いのポタのCD説法師も、各地で活躍している。NVNADも「防災と言わない防災」をキャッチフレーズに、防災まちあるきのプログラムを作りだし、地域防災の活動ツールを作っていった。災害ボランティアに関して、中途半端な立場にあった社会福祉協議会に対し、全国ネットの関係者が災害時の活動の研修プログラムに参画し続けていたことも、その後のネットワークにつながった。

 大きな災害がなかった2002年夏には、阪神の被災地で行われていた「オリンピックの会」の精神を生かし、災害時のボランティア対応だけでなく平時からの備えなども学びあう「817五輪シンポ」が静岡市で行われた。熱意はあるだけにまとまりに欠けると思われていた静岡県内各地のボランティア団体と、震つなの参加団体が集まり、東海地震と備えを学び、互いの取り組みを知り、減災も視野に入れた平時の活動が行われていることを知り、県内相互や外部と顔の見える関係に近づけることができた。
 2004年、新潟・福井豪雨と新潟県中越地震、10個の上陸台風で、16府県79市町村で災害ボランティアセンターが設置された。水害のボランティア活動は、泥出しを中心とした短期活動だったが、中越地震では地震災害特有の長期にわたる活動が展開されることになった。これだけのボラセンが一度にできると、全国的なネットワークがあってもまとまった支援が困難で、全国的なネットワークに属しているそれぞれの団体が、できる範囲で支援していった。
 特に中越地震でも、ボランティアセンターは、数カ月前の水害ボラセンの経験があったのにもかかわらず、必ずしもスムーズとは言えなかった。その中で、自治体毎に立ち上がったボランティアセンターの枠組みを超えて、地域コミュニティを直接支援する活動も展開された。それらは、悩みながら長期支援を重ねてきた阪神大震災の経験が生かされており、現場には全国ネットからの支援も行われた。地元のボランティア活動が中核になって、地震後半年余りで中越復興市民会議が立ち上がったのも、復興の長期過程の情報を共有する中で、地元が全国の経験者たちと目前の支援を行うなかで、場を共有しながら、経験という情報を伝えていけたことが大きいのではないか。

 2005年から、内閣府が総務省消防庁、厚生労働省、全国社会福祉協議会とも連携をして「防災ボランティア検討会」を立ち上げた。これによって、全国や各地で活動する災害ボランティアたちが、年に2,3回、顔を合わせて意見交換をする場ができた。特定のネットワークメンバーではなくても、各地の貴重な被災と支援経験を共有することができ、所属する意味が徐々に薄れたとともに、平時から顔の見える関係がより構築されやすくなった。検討会に参加するメンバー全員と消防庁や厚労省、総務省などのオブザーバーメンバーが情報共有できるメーリングリストは、必ずしも活発とは言えないが、情報共有ツールとしての機能を果たしている。
 また、この検討会の広域連携分科会での議論や「五輪シンポ」の流れを受けて、2006年から東海地震を想定し、静岡県内と県外団体を含めたボランティアの図上訓練が毎年、行われるようになった。数百人のボランティアが一堂に会して行う訓練は、県の事業で3年間行われた後、民間の支援でさらに3年間展開。この場の試行錯誤が、ネットワークの関係性をより強くすることにつながった。
 情報は、何らかのメディアに乗せて伝えるだけでなく、「場」の共有で受け渡しができる。災害は、自然現象という変化しやすい事態が相手であり、公的な支援も制度の変遷や自治体の対応によって異なってくる。被災地支援に取り組む災害ボランティアにとっては、形式的な情報になる以前のプロセス情報をたっぷり含んだ生の情報が大切になる。そのためには、場の共有で得られる情報は重要である。災害時は、互いの得意技やクセなどを知った上で、メーリングリストなどで得られる情報を読み解くことができるのだ。

4……情報を作りだし、共通言語を見出して、価値創造へ

 被災地内でのネットワークがつながり続けていくために、共に情報を作りだす作業が有効になる。阪神大震災の1周年を前に、神戸で開かれた「市民とNGOの『防災』国際フォーラム」では、地元の専門家や企業家、NGO関係者、マスコミ、市民らが集まり、くらしの再建に向けた神戸宣言を採択。フォーラムを開催(開催年1995-2000、2005)するだけでなく、実行委員会として「『仮設』声の写真集」を発行し、さらにこれを活かして「市民が作る復興計画」を作成して本にしてきた。また、多くのボランティアも参加した「震災10年市民検証研究会」が「10年目のアクションプラン」をまとめている。KOBEでは「オリンピックの会」などで情報を共有するだけでなく、アウトプットも作り上げてきた。これらに関わるメンバーの考え方は多様だったが、いろんな場面で意見を交わしあうことで、「くらし」や、「つながり」、「きづな」、「まなび」など、たくさんの意味を込めてひらがなで表記するさまざまな共通言語を見出し、震災からの生活再建や復興の過程で大切になる価値観を共有することができた。時に、これらの言葉が他の被災地救援で使われ、文化的な摩擦を生むことが少なくなかった。被災からの復興プロセスで見出されてきたこれらの言葉は、災害による「方言」や「固有名詞」のようなものであり、価値観の押しつけになりかねない面も含んでいるが、大切なのは具体的な経験からこれらの言葉を生み出して共有してきたプロセスであろう。
 新潟県中越地震では、中間支援組織の中越復興市民会議が「おこす」「よりそう」「つたえる」「つなぐ」「かんがえる」の5つのテーマを掲げて事業を行っている。以前からの地元のまちづくり支援活動に、阪神大震災の復興からの学びを重ね、経験の共有と発信をくり返すことで、被災地内と外部の支援者とつなぐ場を作ってきた。被災で中山間に住む人が減った一方で、これらの事業もあって訪れる人は増えている。地域をどう復興していくか、地域コミュニティや一人一人のストーリーをよりどころにした「物語復興」や、物語を再発見するための「物語復興ワークショップ」など、被災後の復興プロセスを「物語」という情報にする手法も編み出している。
 震災がつなぐネットワークの特徴の一つに、第1節で紹介したブックレットシリーズの発行がある。震つな発足に向けた準備段階から、平常時の活動目的の一つに阪神大震災でのボランティア活動の検証を挙げ、ネットワークの参加団体が交替で編集を担当して発行してきた。98年1月の「物資が来たぞう!!考えたぞう!!」は、送料無料が故に不要な古着が山ほど残って処分に困った救援物資の問題を取り上げた。99年の「ボランティアが来たぞう」では、何がボランティアの役割なのか、どこまでニーズに応えればいいのか、被災者の自立支援とボランティアの役割、行政や他団体との連携など、現場のボランティアたちの悩みをまとめた。2000年の「お金がいるぞう」は支援活動を行った団体の事例などを元にボランティア活動とお金の問題を取り上げた。02年の「情報があるぞう」は約70人の筆者が思い思いに書いており、情報については幅広い側面からの視点があることを示している。さらに検証シリーズの別冊として「どう作る水害ボランティアセンター」(99年)、「法律って何だ? 考えたぞう」(04年)、「避難所のこと考えたぞう!」(07年)が出されており、継続的に本をまとめるという作業を重ねてきた。これらは、どこかにある情報を整理して伝えるだけでなく、編集することで価値を作りだしているが、ネットワーク組織で価値創造を行うことで、結びつきを強め、さらに互いに理解できる共通言語を生み出してきた。
 これらの創造的に情報を作りだす作業は、被災後だけではなく、地域における過去の被災経験を再発見して、地元の財産とし、災害への備えにつなげていく作業に関わることもできる。2004年に2度の水害に襲われた愛媛県新居浜市の災害ボランティアセンターの報告書には、100年前にあった大水害が詳述されている。地域レベルのネットワーク組織が、その地の過去の災害の歴史を啓発活動の材料に取り入れている例は少なくない。
 災害時には自分たちの地域で生活再建や復興を成し遂げていくための力を得るために、平時には過去の経験を掘り起こして災害を身近に感じてもらうために、ネットワークによる協働作業で情報を作りだすことの意味は大きい。

【参考文献】
中川和之他,1995『大震災を生き抜く』時事通信社.
広がれボランティアの輪,1995「阪神・淡路大震災における支援活動を通して学んだこと・提言」.
伊永勉,2005『新・災害ボランティア解体新書』近代消防.
阪神・淡路大震災「仮設」支援NGO連絡会,1996『じゃりみち−仮設支援情報』


第4章 災害救援活動の展開COLUMN 専門知の仕組み化進む専門ボランティア

 阪神・淡路大震災で、ボランティアに動いたのは、大学生や若者だけではなかった。さまざまな資格を持つ専門家もボランティアで活動をした。これらの取り組みは、専門家組織・団体の活動として仕組み化され、災害対策に欠かせないメニューとなっているものも少なくない。
 震災当時の救急医療では、日本赤十字社の救護班が全国から駆けつけたほか、大学病院や国立病院、民間の系列病院などからの医療ボランティアや、海外への支援経験のある医療NGOも活動した。ただ、相互の連携や広域搬送の仕組みもなく、復旧してきた地元医療機関との引き継ぎにも課題を残した。これらの反省から、ガレキの中に取り残されている段階からの超急性期医療も担えるDMATを始め、災害拠点病院の整備や自衛隊も含めた広域搬送、人材育成など、専門家と政府が連携しての仕組み作りが進んだ。
 また、阪神・淡路大震災で初めて活動した応急危険度判定士は、当時は静岡県と神奈川県にしかなかったボランティア組織が、現在では国土交通省や建築関係団体などによる約10万人の判定士を擁する全国被災建築物応急危険度判定協議会となった。(中川1997)、(山下・菅2002)
 DMATや応急危険度判定士に限らず、業界団体として日常からの行政とのつながりを背景にしたボランティア活動としては、1万人を超える被災宅地危険度判定士や、斜面判定士など、行政だけではできない分野での活躍が目立つ。
 弁護士会、建築士会、司法書士会など「士」の団体が、復旧・復興を支えるために結成した阪神・淡路まちづくり支援機構は一定の権能を持った団体が作ったボランティア組織で、阪神から10年後に14団体による災害復興まちづくり支援機構が東京にも誕生している。
 これらは、それぞれの専門家や専門家団体が日ごろから「顔の見える関係」である行政組織とも連携しながら行える活動であり、ボランティア活動の仕組み化が有効である取り組みだ。一方で、定型的な行政の業務とは異なり、自主的で専門家の高い社会貢献意識に支えられて形成されており、岩手・宮城内陸地震の応急危険度判定では全国協議会のマニュアルにない3人チームが導入されて住民に対して詳しい現場説明を実施するなど、自発的で創造的なボランティアらしさも内在されているのも特徴だろう。
 「餅は餅屋」の得意技を活かした専門家ボランティアが、新たな社会制度に伴って登場することもある。阪神・淡路大震災後に誕生した介護保険で社会的な役割が大きくなったホームヘルパーや介護福祉士が、被災者の生活再建意欲を引き出すような生活介助ボランティアを行い始めている。

【参考文献】
中川和之、1997「到来しつつあるボランティア社会を前提とした災害救援システムの実現に向けて第3章中央省庁の取り組みと課題=21世紀の関西を考える会ボランティアを含んだ都市・地域防災チーム提言」
山下祐介・菅磨志保、2002「震災ボランティアの社会学<ボランティア=NPO>社会の可能性」ミネルヴァ書房


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