連載・「防災施策と情報提供 災害の影響を少しでも軽減するためにどうすればよいか」(3)

極限の中で最善を目指した阪神・淡路大震災の報道対応 大部屋を共有した臨戦型の広報体制で災害対策本部と報道陣に同志の絆が生まれた

月刊『広報』(日本広報協会、2007年6月号)

 中川和之 時事通信社編集委員

 私自身が、災害現場の取材に初めて行ったのが、一九八四年の長野県西部地震でした。住民千五百人の村が大混乱しているのを目前にして、「規模の小さい自治体には限界があるんだな」と思い込んでいました。それが間違いだと分かったのは、十一年後の阪神大震災でした。災害時の対応は、自治体規模の大小には関係なく、逆に大きいからこその混乱も目の当たりにしました。二度に分けて、阪神大震災当時の情報の問題を考えてみます。

 一九九五年一月十七日に発生した兵庫県南部地震は、都市直下型地震への備えをなにもしていかなった神戸市などを襲い、阪神大震災という甚大な被害を引き起こしました。監察医による法医学的な検案を受けた死者の95%は、地震から十五分以内に絶命しており、死因の八割は家や家具の下敷きになって亡くなっていたのでした。そんな想像を絶することが起きているとは誰も気付かず、神戸の直下での地震であったことすら分からずに、東海地震が起きたと思いこんで「静岡は壊滅状態だろう」と考えたという人の話を何人から聞きました。当時は、大地震と言えば、東海地震という妙な思いこみが、たぶん日本全国にあったのでしょう。これも情報の問題でもあります。

 私は、科学記者として地震担当の経験があったことから、午前六時前に会社から呼び出しがかかりました。「淡路島でマグニチュード7.2。神戸は震度五だとか六だとか」という連絡です。この時点では、神戸と淡路の震度情報がオンラインでは入っておらず、情報が混乱していました。不勉強な私は、淡路島と聞いて勝手に震源を島のど真ん中と想像し、島直下型で神戸の震度は五ぐらいだろうなどと思いながら、すぐに阪神間の実家に電話を入れました。「いま、がれきの中から電話を取りだしたところ。誰もけがをしていないし、大丈夫」という元気な親の声を聞いて、「がれきといっても、どうせ電話機の置いてある脇にある本などが落ちて埋まったぐらいだろう」と、これまた勝手に想像して、スーツとコート姿ですぐに出勤しました。途中の電車の中で、高速道路の倒壊などの情報を聞き、ただごとではないと思いつつも、何らかの手抜き工事かななどと、まだ半信半疑。結局、このまま二週間、自宅に帰れませんでした。

◇マスコミ取材も情報源に

 神戸市の地域防災計画は、最大震度五しか想定していません。まともな広報体制などはとても取れたものではなかったことは容易に想像が付くでしょう。ただ、限られた条件の中で、優れた取り組みがなされました。

 当時神戸市の広報課長を務めていた桜井誠一氏(現保健福祉局長)は、神戸市西区という六甲山の北西側で被害が少なかった地域に住んでいました。そこからマイカーで午前七時半に市庁舎に駆けつけた時には、既に市長らが到着しており、災害対策本部の設営を始めたそうです。最初は一階ロビーに設け、それからすぐに八階の会議室に移りました。
 八階の本部から県庁との緊急連絡も取れるようになったものの、隣の建物にあった消防本部は119番の要請でパンク状態。市内で一体何が起きているかも分からず、徐々に出勤してくる市職員に途上で見てきたことを報告させるしかありませんでした。
 そこで「情報がなければ、取材も情報源に使え」と考えた桜井さんは、大部屋を半分に仕切り、災対本部と報道陣の部屋に分けて、中央の間仕切りにしたボードに次々に新しい情報を貼りだしていくという臨戦型の広報対応をすることにしたのです。

◇災対本部公開方式で”戦友感覚”に

 翌日未明に神戸市内にたどり着いた私は、昼過ぎに神戸市役所に行きました。一階のホールは避難所になっており、階段で上がった八階の災対本部は騒然とした雰囲気でした。ちょうど、臨海部のガスタンクからのガス漏れでの避難勧告に関して間仕切りに張り出しがあり、東京から持ち込んだリースの携帯電話を使って、その紙を見ながら本社に原稿を送り込みました。原稿に書かずにメモなどを元に原稿を頭の中で作りながら読み上げる「勧進帳」で、原稿をたたき込んだことを良く覚えています。

 その部屋の反対側では、市災対の職員がひっきりなしの電話に資料や地図と首っ引きで対応している状況を眼前にしました。「今の段階ではこれしか情報がない」と切迫した表情で職員から言われると、普段、行政対応のまずさに文句を言いがちな記者も言葉を飲み込みます。次第に互いに災害に立ち向かう同志のような気持ちになっていったように感じました。とことんの現場感覚が、その場を支配していました。情報が張り出される端から「ちぎっては投げ」状態で、報道されて行きました。

 もう一つ、桜井氏がやったことは、映像の記録を撮ることでした。十六階の広報課に駆け上がった時に、部下から電話がかかり、最初の電話に「後で連絡をする」と言って切ってしまってから「しまった」と反省。次に電話をかけてきた別の部下に「ビデオカメラを持っているなら、撮影しながら上がってこい」と指示をし、本部で市内の様子を把握するのに役立てたのです。今、この記録映像は、神戸市のホームページで見ることができます。これも貴重な判断でした。
 整理をしないままの張り出し方式には、限界もありました。災対本部で張り出される情報は、区役所にもファクスで届けられていましたが、災対本部から送ってくる情報を整理する役割分担などもされないまま、どんどんファクスがたまってゴミ状態になっていたところもあったと、後で聞きました。情報は、出してと受け手がそろって始めて伝わるのです。避難勧告に関する情報も適切に伝わっていなかったようです。

◇なじみの県議とゴルフ談義する現実感のなさ

 午後遅くなって、市役所から兵庫県庁に移動しました。市役所は、都市計画部局などが入る2号館の途中階がつぶれ、保管していた地図も引っ張り出せない状態でしたが、少し山手にある県庁は、渡り廊下の一部が壊れていた程度で被害は軽そうでした。
 県庁の向かいにある日本赤十字社兵庫県支部の前には、全国から到着した救急車がずらっと並んで各地に出動していきました。実はこの勢揃いは、県支部に連絡が取れない中で、日赤本社が全国に「行け」と指示をした結果で、もし兵庫県支部に連絡が取れていたら、全国への応援要請をする判断はしていなかったと聞きました。情報がないのは、悪い便り、という判断が奏功したわけです。

 県庁の前は、自衛隊の車が数台止まっている程度で、妙に静まりかえっていました。海に近い神戸市役所より周囲の被災程度が軽いこともあり、避難所にもなっていませんでした。応援の記者でごった返していた市役所と異なり、県庁記者クラブに詰めていたのは、ほとんどが地元の記者だったようです。
 何より驚いたのは、県会議員が旧知の記者と「先週のゴルフが」と雑談をしていたことでした。また、被災状況のまとめレク資料に対して「分かりにくいので、これでは書けないよ」と、いつもの記者会見のように文句を付けていたのにも衝撃を受けました。「おまえら、窓の外をよく見てものを言えよ」と言いたくなったほどです。現場からワンクッションある県庁だからかもしれませんが、少なくとも市役所で見られた報道も一体となった雰囲気はありませんでした。

 その後、市役所八階の記者スペースには、NHKのラジオブースが常設され、生活情報がその場で流されていきました。神戸市は、地元のAMラジオ局やUHFのテレビ局にもブース設置を働きかけたのですが、NHKほどスタッフが潤沢ではなくて設置が見送られたという話を後で聞き、残念に思いました。
 新潟県中越地震で長岡市は、災害対策本部の会議を報道陣に公開し、途中から地元ケーブルテレビが実況中継することで、市民の信頼を得ることができたと聞きました。能登半島地震でも、石川県や輪島市、七尾市などの災対本部の会議は、何の取材制限もせずに公開していたのは、前回紹介したとおりです。災害対応には、隠すべきことは何もないはずです。

 阪神大震災の際のマスコミ広報については、防災に関して私の恩師とも言える故廣井脩東大教授のホームページに、震災五年で兵庫県がまとめた「災害時のマスコミの役割に関する課題とあり方」の報告書が、ここのサイトから見ることができます。
<a href="http://www.hiroi.iii.u-tokyo.ac.jp//index-iinkai-sinsai_kensho_teigen.html" target="_blank">災害時のマスコミの役割に関する課題とあり方(廣井研hp、震災対策国際検証会議)</a>

 次号は、神戸市のマスコミ対応での問題点と、市民への情報伝達について、紹介しましょう。(了)


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