地震研究とインフォームド・コンセント
「時の眼」第43回 日本理容美容教育センター研究紀要

97年10月執筆   

 時事通信社       
社会部科学班 中川和之


 インフォームド・コンセント。時事通信社では「十分な説明と同意」と訳している。医療の世界で、医師らが治療の内容を患者に十分説明し、納得や同意を得るために必要なことだ。

 何かのサービスを受けようとする場合、十分な説明と納得や同意は不可欠だ。その中で、医療の分野でそれがより強く求められるのは、患者を実験台とするような一部の問題医療があったことはもちろんだが、もともと大半の医療行為は患者に対して一定のリスクを負わせないと成立しないからだ。

 手術を考えてみよう。医師免許がなければ、体にメスを入れることは傷害罪だ。それでも、病気という大きなリスクを回避するために、それよりは小さいリスクである手術という医療行為が、患者も納得のうえで選択されるのである。

 薬でも、それは同じだ。体の何らかの生理バランスを変化させるというリスクを承知で、病気というリスクを回避させるよう医師らが判断して処方される。より大きなリスクがある病気に対しては、副作用というリスクがある薬を選択せざるを得ないこともある。その際に、患者自身が納得した上で治療を受けられるためにも、インフォームド・コンセントが必要なのだ。

 社会的なリスクが大きい事象の一つに、地震がある。阪神大震災の被害を大きくした原因の一つに、「神戸では大きな地震は来ない」という誤った常識があった。歴史をひもとけば、阪神間はしばしば地震の被害にあっており、六甲山という標高千メートル近い山ができたのも、何十万年もの間、地震活動を重ねてきた結果なのにもかかわらずだ。

 山を背に海が南側に広がるという都市としては他にない恵まれた居住環境がある阪神間だが、そこは、時にはマグニチュード7クラスの大地震が起きる可能性がある土地なのだ。危険性について十分な知識がないまま、住み続けていた多くの人にとって、地震というリスクを想定した防災対策は念頭になかったのだ。

 地震の直後に、地震研究者の間からは「阪神間であの程度の地震がいつか起きるのは分かっていたこと」などというコメントが相次いだ。しかし、それは地元の社会には届かずに、地震というリスクに対するインフォームド・コンセントは成立せず、耐震水槽の設置など防災対策もされていなかった。

 この反省から、政府の地震調査研究推進本部では、地震活動の地域別の特徴をまとめ、自治体が防災対策を立てる際の基礎資料とするとともに、インターネットでも公開して、社会的なインフォームド・コンセントを確立させようとしている。

 地震のリスクを回避するための方策の一つとして、地震が起きる直前に察知して安全を確保しようという地震予知という考えがある。一九八一年、国内の内陸地震としては最大のマグニチュード8と推定されている濃尾地震後に文部省震災予防調査会が作られた際から、予知の実現は目標となっていた。

 まだ、地震が地中のひび割れである断層がずれて起きるということが分かっていなかった時代から、リスク回避のための切り札と期待されていたが、今年六月に日本の三十年以上にわたる地震予知計画を再評価した報告書では「得られた成果は高く評価できる」としながら、「当初目標の『地震予知の実用化』のめどが立っていない事実を厳粛に受け止め、改善していく努力が必要」と厳しい評価を下された。

 この経過に至った背景には、インフォームド・コンセントの欠落があったと考える。

 確かに、一時期、研究者も社会も、予知の実現可能性に期待が高まった時期があった。地震空白域とされた根室半島沖で一九七三年に地震が起き、七五年に中国で海城地震の直前予知成功が伝えられた。東海地域で二十四時間の連続監視も始まり、大地震が起きる前の前兆現象がキャッチできるのではと考える専門家も多かった。

 しかし、その後の研究が進むに従って、前兆現象の出方もさまざまで、地震現象が考えられていたより複雑だということが徐々に明らかになり、地震予知計画でも前兆の観測を重視するだけでなく、基礎的な研究を重視しだしていた。ただ、社会の期待とのずれを積極的に埋めようという働きかけが、政府や学会からないままに阪神大震災を迎えた。

 「研究の継続性を考えて、予知実現の可能性について十分突っ込んだ議論をせずに、計画を更新してきてしまった」。「『予知』というキーワードで予算が通りやすくなることもあって、行政側の意識が切り替えられなかった」。関係者は、地震予知を巡って、社会に対するインフォームド・コンセントを妨げてきた理由を述べる。

 来年度に、地震予知の新たな計画を策定するための検討が、地震学会などを中心に始まっている。計画の立案から、結果の評価までの過程を公開し、成果を積極的に社会に還元することを目標とし、地震研究のあるべき姿を探っている。

 地震による大きなリスクに、建築や土木構造物の倒壊がある。阪神大震災以前の耐震設計は、基本的には百−二百年と繰り返し周期が短い関東大地震のようなプレート境界型地震を想定し、周期が長い内陸の直下型地震は、耐震設計に反映されていなかった。

 ビルや橋脚などが次々と倒壊した反省から、活断層による直下型地震を想定して、耐震設計を抜本的に見直す動きが進んでいる。

 新しい考え方は、木造家屋やビルなどの建築物は、実際にその地域で起こりうる地震の揺れを推定し、その揺れにどこまで耐えるかを構造物の重要度や建築主のニーズなどに応じて設計する「性能評価設計」を導入が必要とされている。

 すべての建物が原子力発電所のようにどんな地震でも壊れない強さを確保しようとすると、建築コストはべらぼうに上昇する。公共施設など多数の人が使う建物は倒壊しないだけでなく継続的な使用を可能にし、逆に倉庫などは最低限の基準でという考え方を導入したのが性能評価設計だ。

 高速道路や新幹線の高架橋やライフライン関連施設など土木分野でも、活断層による強い地震の揺れを耐震基準に盛り込むとしている。

 新たな耐震設計の考え方では、想定する活断層で起きる地震の揺れの強さの設定次第で設計水準が大きく変わるだけに、活断層で起きる地震が、どの程度の強い揺れを地面で引き起こすかの予測が重要になる。しかし、この分野の研究にはまだ課題が多い。

 揺れの分布に重要な要素となる地下数キロまでの地盤データの整備はまだほとんど進んでいない。地震でずれる断層面の不均一さの把握も課題として残るなど、一定のあいまいさが残るのが、現在の科学的な限界だ。耐震基準の見直しを前に、設計の現場では「建築主にどう説明したらいいか」などと不安の声も出ている。

 土木学会では、建築学会や地震学会などにも協力を呼び掛けて、直下型地震による強い揺れを予測する手法のガイドライン作りに乗り出した。そこでは、現時点で実現可能な予測水準を設計に反映させるために、社会に対してその限界をどう伝えるかの工夫が必要となる。そして、建築物の利用者となる住民も、限界を見据えて理解、納得することが求められる。それが、インフォームド・コンセントなのだ。


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