岩波「科学」(2003 Sep.) 特集 地震防災と危機管理 「地震防災の現状と課題」

「市民による自立再建」めざす震災復興対策 被災後の経過をイメージし事前対策を
中川和之(なかがわ・かずゆき) 時事通信社記者

アブストラクト

 地震は一瞬の出来事だが、もたらされた災害は社会に、暮らしに大きなダメージを与える。しかしながら、さまざまに高度化された現代社会から失われるものは、命だけでないという当たり前のことが、阪神大震災まではほとんど考えられていなかった。生活を建て直し、地域を再建し、社会を復興させるための事前の備えは未だに貧弱だが、取り組みはようやく緒につきつつある。

毛布とおにぎり、ほったて小屋では立て直せない現代社会

 地震は、地面を大きく揺さぶり、揺れに耐えられないものを破壊する。海底の地形を変化させ、その上の大量の海水が上下して津波を起こす。
 この列島は、何度も地震に揺さぶられ、被災し、人々はそこから立ち直ってきた。起きる前から名前が付いている唯一の地震である東海地震。起きた後はどうなるのか。行政は、社会は、企業は、地域は、一人一人は、何をして行かねばならないのか。法律や社会の仕組みは、どうなっているのだろうか。そこから、暮らしを立て直し、地域社会が復興していくために何が備わっていて、何が不足しているのか。それを見極めて、対応する手がかりを得なければならない。
 東海地震に備え、対処するための法律は、本特集のテーマになっている大規模地震対策特別措置法(大震法)だけではない。ここではまず、災害対策基本法や災害救助法などの仕組みが、どのようになっているか、その変遷も含め、特に生活者の視点から分析したい。
 大きな被害をもたらす大地震は、低頻度であるが故に非日常性が高くなり、社会がどのように備えたらいいか、難しい点が多いのは当然とも言える。しかしながら、東海地震はたとえ単独で起きなくても、折り返し点を過ぎて近づきつつある次の東南海地震とセットもあり得ることを前提にすると、想定被害地域は必ず被災することを前提に、対応策が取られていなければならないはずである。その東海地震対策ですら、暮らしを立て直し、地域が復興していく支援の方策は、四半世紀過ぎた現時点でも全く不十分であると言わざるを得ない。
 阪神大震災は、それまでの防災対策に何が欠けていたのかを気付かしてくれた。直後には、初動対応の危機管理的な視点の問題ばかり強調されたが、高度に成長した豊かな社会を襲った震災は、さまざまな教訓を残した。そこから何を学ぶ必要があるのかを、押さえておかねばならない。
 例えば、当時の避難所への支援水準が低かったため、ライフラインの復旧や仮設住宅など仮住まいの供給が行われるまで続いた生活は困難を強いられた。仮設住宅のあり方にも教訓を残した。極端な言い方をすれば、地震を生き残った人には、毛布とおにぎりに、ほったて小屋程度の支援しか想定されておらず、後手後手になりながら支援が続けられていったのである。(1)
 道路や鉄道、港などの公共施設のハードが、いち早く復旧・復興したのに、復興まちづくりのための区画整理や市街地再開発の事業が終った地域が、被災後8年半の時間を経て過半に達していないのが現状だ。
 これから起きる地震に対して、被災から1週間後に、1カ月後に、半年後に、3年後に、10年後に何が課題となるかをしっかりと分析して、何が起きるか想像力をたくましくしてイメージし、備えていかねばならないはずである。
 残念ながら、未だに「起きてから考えればよい」と言わんばかりの備えが少なくない。しかし、この8年半で知ってしまった私たちは、阪神大震災をまだまだしっかり学ぶ必要がある。
 その成果は、ここ1、2年でようやく見え始めた。東海地震に関しては、静岡県による2001年5月の第3次被害想定に初めて詳細なシナリオ想定が盛り込まれた。そして、それに基づく地震対策アクションプログラム2001で打ち出した3つの理念のうち、2つが「被災後の県民生活を守ります」、「県民生活の確かな復旧・復興を進めます」という生活再建・復興に関するものとし、今後の重要施策として位置づけている。
 また、東京都は今年3月、従来は行政内部向けだった震災復興マニュアルを大幅に改定、復興の過程を都民が理解し、指針と出来るよう「復興プロセス編」を策定した。そこでは、くらしの復興や、商店街の復興、中小企業の復興などを、地域の力を生かして行っていく経過が示され、そのために平時からの地域づくり活動を支援していくとしている。被災者が、暮らしを立て直していく上で、多様なシナリオが提示され、そこから自己選択、自己決定していくことが重要(2)だが、そのための貴重な指針になるマニュアルと言える。同時期に出された三重県のアクションプランには、生活再建等に関するハンドブックの作成が盛り込まれているのも、同様の趣旨であろう。
 今年5月に示された中央防災会議の東海地震対策大綱は、「的確な復旧・復興対策」との章立てで取り上げた。そこでは、東名など大動脈復旧を最優先することなど国ならではの視点と共に、さまざまな相談に応じることが出来るワンストップサービスの設置なども盛り込んだが、これらの3都県のような具体性を打ち出すまでには至らず、今後の課題となっている。
 被災後の生活再建や復興は、一人一人の個人ではなしえるものではなく、地域での平時から取り組みが重要になる。同じ地震で被災しても、津波や土砂崩れ、液状化など被災の仕方は地域によって異なる。それに備えるとすれば、地域ごとの被害想定、被災シナリオが求められる。地域の取り組みが重要であるとの指摘は増えていながら、地域の義務的地縁組織としての自主防災組織は、活性化が求められる対象であり、従来のやり方では立ち行かなくなっている。
 国や自治体は、防災基本計画や地域防災計画を策定して、災害を想定した対応策をまとめている。それと同様に、自主防災組織や避難所運営協議会、まちづくり協議会などが、行政や専門家のサポートも受けながら、自分たちの足元を対象にした地域防災計画や、事前復興計画を作って備えておくことができないか。
 そして、その計画作りの過程で、地域での合意形成を図っておくことは、被災後にさまざまに噴き出す難問への解決能力を高めておくことにもなる。生活の再建や復興には、時に最短距離の近道より、やや遠回りで非効率な道のほうが、みんなの納得が得られて、より相応しいこともある。これらのプロセスに、日常から多くの住民が参画していく。それらは、災害のみを対象にした計画ではなく、平時のまちづくりや、地域の魅力アップにつながっていき、いざというときには、その地に住む当事者たちが、平時にみんなで考えてきた方向に、地域復興を進めていくことができないか。生活再建や復興は、第3者が与えるものではなく、それぞれが主体的に取り組むことではじめてなしえることだが、当事者が取り組む力をより引き出すことが出来る周囲のサポートのあり方も決して簡単ではない。

災害時の法制度、後追いが基本。大震法は例外

 日本の災害関連法は、1880年に現在の災害救助法の原型と言える備荒貯蓄法が発布されて、炊き出しや小屋がけ、農具や種もみ代の供与という災害後の救助を実施することとしたのが最初である。自治体ごとに基金を備える罹災救助基金法を経て、1946年の南海地震の後の47年、災害救助法(災救法)が成立。救援の実施主体を都道府県とし、救助の支出額に応じて最高9割まで国が補助をするという方式が確立した。災救法は、当初から目的が応急救助で、復旧対策とは関係を持たないことは、当初から明確にされていた。
 59年の伊勢湾台風を期に、災害予防や復旧を含めた総合的な立法の必要性が指摘され、61年に災害対策に関する基本的事項を定めた「一般法」として災害対策基本法(災対法)が成立した。この際、災救法に定められていた中央(地方)災害救助対策協議会に関連する条項が削除され、災対法で中央(都道府県)防災会議に姿を変えた。災救法から生まれた災対法が基本法になると言う親子逆転をしたのである。その後も、64年の新潟地震をきっかけに地震保険法が出来たり、78年の宮城県沖地震で建築基準法の耐震基準が改定がなされた。73年には、亡くなった人の遺族に現金を支給する災害弔慰金法が議員立法で作られた。このように、防災体制の充実・強化は、大きな自然災害などを契機に後追いで行われてきている。(3)
 生活再建や復興に関して、基本法である災対法や、同法に基づく防災基本計画はどのようになっているのか。災対法では、災害があったらその直後に災害対策本部が何をするかなど危機管理的事項が中心で、そのための訓練や準備が求められている。復旧・復興対策については、公共的な社会インフラを復旧させる対策が中心となっており、生活再建や復興まちづくり的な視点は含まれていない。阪神大震災の直後の法改正も、初動体制の強化など、危機管理的な側面がより強化されただけに留まっている。
 災救法は、あくまで「応急救助」で、生活を再建する前の段階を支えるのが役割とされている。大規模な災害でなければ、避難所は1週間以内で解消することとしており、阪神大震災前の実務書には「1週間でも相当大規模な災害であり、通常は2,3日で解消される」と書いてあるほどである。2度の通達改正で、応急期の避難暮らしや仮設住宅の水準は大幅に改良され、「おにぎりと毛布」から避難所の間仕切りや、仮設風呂の設置なども盛り込まれているが、それでもあくまで応急期の救助という性格は変わっていない。
 その中で、事象の後追いではなく、事前対策となった78年の大震法制定は異例と言える。大震法と言えば、東海地震の地震予知への法的根拠として語られることが多いが、それ以外の働きについて触れておきたい。大震法で指定された強化地域に対して、他の地域より手厚く地震対策の補助金を支給する地震財特法(80年施行)とセットとなって、指定地域にはハード面を中心により手厚い防災対策がなされてきたのだ。
 命を守るためにと、避難地の整備や消防設備の強化、学校や病院などの耐震化、山崩れ対策や、緊急輸送路の整備、市町村の防災拠点整備や、自主防災組織の育成などに使われた静岡県の事業投資額は、第3次被害想定時に1兆4千億円と試算されている。地震財特法による上乗せや、静岡県独自に実施している法人事業税の超過課税分の収入のほか、地方交付金の底支えもあったためだ。同時に、これらの投資による被害軽減額を4兆8千億円と推定、予知が実現した場合はさらに2兆5千億円が軽減されるとしている。
 余談になるが、阪神大震災前に警戒宣言に至らない注意報的な情報を出せないかと、大震法の運用の見直しなどをめぐって議論となった際、「一度も運用していない法律を見直すのは難しい」という官僚的な根強い抵抗があったが、実態としてはこれらの事業の根拠になって運用されていたのである。ちなみに、阪神大震災後に制定された地震防災特措法によって、強化地域外の自治体に対しても同程度の補助金上乗せが出来るようになっている。
 大震法や地震財特法は、社会インフラの耐震力が向上することにより、事後の生活再建や地域の復興に寄与しているとは言えるが、コンテキストとしてはやはり災対法の延長にある。阪神大震災の直後に、静岡の行政担当者が「東海地震が発生して仮設住宅を作る経費を事前に出せるなら、命も救われるのだが」と言ったと側聞したが、もっともである。
 生活再建や復興への支援が貧弱な中で、戦後の被災地はどのように立ち直ってきたのかを押さえておくことも大事である。戦争という大打撃を受けた前後に、鳥取地震、東南海地震、三河地震、枕崎台風、南海地震、カスリーン台風、福井地震と、死者・行方不明者が1000人を超える災害が5年間に7回、襲っている。さらに、5000人を超える人が亡くなった59年の伊勢湾台風までに、台風や大雨で1000人を超える災害が4回あった。
 戦争から日本全体が立ち直っていく過程で、徐々に社会のインフラが整備されていく。戦後しばらくは、社会全体が生活再建や復興の過程にある中で被災地も立ち直っていく。さらに、社会全体が大きく発展する高度成長で被災のマイナスが吸収され、暮らしが立て直されていったと言えるのではないか。それは、まだ被災で失う物が少なかった時期だったのであり、当たり前のことであるが、失うものがあっての災害であるのだ。
 かつて、火事と喧嘩は江戸の華と言われた。当時の江戸の町衆は、何度も火事に遭いながら、まちを立て直していくが、当時の家も暮らしも立て直しやすい程度の水準がそれを可能にしたのではないか。安政の江戸地震で描かれた多数のナマズ絵には、金持ちから蓄えを吐き出させたり、さまざまな職種に復興需要をもたらしたことを肯定するような視点で書かれているのも少なくない。そのようなナマズ絵からは、災害と適度に付き合っている感じすら受けるのだ。(4)
 戦後の日本では、伊勢湾台風後、水害対策のインフラが整備される中で、台風や大雨は大きな被害をもたらさなくなっていった。一方、地震といえば、日本を大きく揺さぶる南海・東南海地震、関東地震のガス抜きが終わった後であり、活動がおとなしい時期が続いた。その中で高度成長が続き、災害が制御されてきたかのような誤解を生んできたのではないか。高度成長と共に、弱点の強化もなされないまま、社会が複雑化、高度化していった。行政主導による公共事業で社会のハードが強化され、企業が大きく発展し、眼前の課題が山積する中で、地震防災に備えるために、将来の被災後の個人生活の建て直しを先取りして考えるというような発想は生まれてこなかった。
 電気、ガス、上下水道、電話というライフラインが整備され、それに頼る生活が当たり前になった78年に起きた宮城県沖地震で、「ライフライン災害」という言葉が生まれたのも、象徴的だ。多くの人が亡くならなくても、地震に打撃を受けるような暮らし方になってしまっていたのだ。その意味が十分見直されることがないまま95年を迎えてしまった。

住宅倒壊は、命と暮らし、地域のつながりを奪う

 95年1月17日の兵庫県南部地震は、阪神大震災をもたらし、人々は、地域は、命を、住まいを、暮らしを、つながりを、仕事を失った。
 死者は、伊勢湾台風以来の規模となり、6,400人を超えた。その約8割、震災関連死を除くと9割は、住宅の倒壊や家具の転倒等による圧死だった。明け方、寝ていて自宅によって亡くなってしまったのである。地震の規模は、極めて大きいというものではない。日本の都市周辺に必ずあると言ってもいい程度の大きさの活断層であり、それが動けばどこでも起こりうる通常の規模の地震だった。目の前には地震の繰り返しで大阪湾から急激に立ち上がっている六甲山が無言でその意味をさらしていたにも関わらず、その地震に備えることも出来ずに多くの方が亡くなったのだ。(六甲山の意味を地域に伝える手法の一つとして、専門家の協働で次世代にそのリスクと恵みを伝えるという試み(5)を行っている)
 倒壊した家屋は道路をふさぎ、薪の役割をして火災の拡大を招き、消火を困難にするなどして地震被害を拡大した。風が普段の半分であったのが不幸中の幸いだったのだ。家屋の倒壊によるがれき処理や、仮設住宅の建設などでも多くの公費支出を強いた。
 被災者にとって、生活の基盤となる住まいを欠くことで、くらしの再建が困難になり、多くの家が倒壊した地域は、当然の事ながら地域復興のハードルも高くなった。住宅が倒壊することで、命を失い、暮らしの拠点を失い、避難所や仮設暮らしをする中で、地域のつながりも失い、生活再建や地域の復興をより困難にしたのである。
 地震の直後は、初動期の対応の悪さばかり指摘され、95年の災対法の改正の重点もそこに置かれた。一方で、被災程度の軽減にも、生活再建のしやすさでも、地域の復興にとっても、住宅の耐震補強は重要であることは踏まえられており、同年に耐震改修促法が制定されたのだ。97年の密集市街地整備法、2002年の都市再生特別措置法も、まちづくりや都市再開発という手法で、災害に強い住まいや地域を作っていこうという目的を持っている。
 東海地震のお膝元である静岡県でも、阪神大震災直後にまとめた地震対策300日アクションプログラムは、国の災対法見直しと同様に、初動期対応に重点が置かれ、個人住宅の耐震補強は盛り込まれていなかったが、2001年度からプロジェクト「TOUKAI(東海・倒壊)−0(ゼロ)」と題して、個人住宅の耐震補強を明確に打ち出した。木造住宅倒壊ゼロを目標に、5年間で全ての旧基準木造住宅60万棟の簡易耐震診断実施や、低コストの耐震補強策のコンペ、耐震補強工事の助成を行う。
 東京の地震防災を産官学民で進めようというユニークなNPO「東京いのちのポータルサイト」が2002年の設立総会時に、「命と暮らしを守るだけでなく、不況にあえぐ地元工務店など公共事業にもなる耐震補強の推進を」という特別決議がなされるなど、耐震補強には多様な関心が持たれるようになってきている。このNPOの活動から、都内や近県の地方議会への陳情や請願という動きすらでてきている。命と、住まいと、暮らしと、地域のつながりを守るために、家を強くしておくことの重要性が、8年半にしてようやく理解されてきたというところである。このNPOが耐震補強のキャンペーンで、02年に神戸市にできた「人と防災未来センター」の協力を得て、同センターでしか見ることが出来ない地震直後に家やビル、高速道路が倒壊していく再現映像の短縮バージョンを使うことで、説得力を持たせていることは教訓を学ぶという意味で象徴的である。
 残念ながら、国土交通省が2001年に全国10カ所の住宅密集地区で、住宅の改修を行わない理由を質問したところ、「必要性を感じていない」が35%と最も多く、「費用負担が大きい」17%の倍となっている。全国で最も制度が進んでいる横浜市では、所得によっては工事費の9割(上限540万円)までの補助を付けてまで耐震補強を推進しているが、この予算が足りなくて困ったという話は、残念ながら聞かないのも事実である。
 その中で、横浜市が50メートルメッシュの詳細な揺れの強さを表した地震マップを2001年に作ったところ、市民が実感を持って地震を捕らえることが出来たためか、耐震診断の申し込みが倍増している。また、東海地震の強化地域に新たに指定された名古屋市内で、レスキューストックヤードという災害NPOが、専門家のサポートも得ながら、事務所のある千種区周辺の自治会と共同で、地域の高齢者らの住まいの押し掛け簡易耐震診断や、家屋の固定、移動というボランティア活動を進めている。既存の自主防災組織でも、同様の取り組みをするところもでてきている。
 耐震補強をしないと言うことは、自分の命や暮らしを失うだけでなく、延焼の危険度を高くしたり、隣の家に寄っかかってしまったりなど、周囲にも影響を及ぼす。まだ今の社会常識では、耐震補強をしていなかったから、周囲に被害を及ぼしたなどとして訴えて補償を得られるほどには達していないだろうが、住宅に関しての善意の管理義務がその水準だと言えるまで引き上げ、それが地震国日本の暮らし方と言えるようにならないだろうか。まだ、さまざまに工夫の余地はありそうである。
 旧国土庁時代に検討された被災後の住宅再建支援策だが、共済方式などのアイデアはありながら、最終的には個人住宅の再建に公共性があるということを指摘するに留まり、未だに地震保険を超える制度が生み出されるに至っていない。壊れて、人の命が失われ、地域に大きな打撃を与えてから、公的支援をするのではなく、まず地域社会が大きな打撃を受けないようにするために、私的財産に対しても支援をすることはできるはずだ。災害弔慰金法で、遺族に対して最大500万円を支給する国が、未然防止に力を入れないのは不健全であろう。耐震補強の意識や動きが定着してくれば、住宅の再建支援策がモラルハザードの指摘を受けずに済むのである。
 行政やライフラインなど公益企業が作ってきたと考えられていた社会のインフラだが、公共事業で作られるようなハードだけではインフラとは言えず、さまざまなソフトも含めてインフラとなって社会を支えていた。人が特定の場所に住んでいることを、公共的社会インフラとして位置づけ、そこに住み続けてもらうために税金を使った住宅再建支援を行ったのが鳥取県西部地震の際の考え方だった。「第3の公共としてのNPO」であるとか、「企業市民」とか、逆に「NPOとしての行政」だとか言われるようになり、公共性は、行政などだけがになうわけではないということも、共通認識になってきている。
 耐震補強に関しては、今、ようやく市民レベルの動きも巻き込みながら、動きを見せようとしているのではないか。

再建の主役は地元。選択と納得の復興を目指す

 地震によって、一気に非日常の状態に突き落とされ、そこから立ち直って日常を取り戻し、生活を再建し、復興していく過程で大切なものは何か。阪神大震災では、地震の直後、「被災地の人に疎開してもらい、一気に行政やゼネコンなどの力でハードを復旧させると効率的だ」という意見が真顔で語られたことがあるが、少なくともそれは大いなる勘違いであることは、まず指摘しておきたい。再建や復興は、生活者として、行政担当者として、企業市民として、その地の当事者でなければなしえない仕事なのである。
 北海道南西沖地震で、津波で壊滅的な被害を受けた奥尻島の青苗地区には、多くの救援リソースが集中した。「被災者の皆さんは体育館でお休み下さい」とされ、その間に流された遺体が捜索され、まちが片づけられていったという。一方、島の北にある集落では、被災者自らが捜索を行い、港の復興に汗を流し、2カ月後には工場の再開を果たした人もいた。1年後、青苗地区を中心に義援金の使途をめぐって「災害病」とまで言われるほど、人心が荒れたという。救援者が、効率的に救援者役割を果たすことで、被災地や被災者に対して、受け身の被災者役割を強いてしまう。野田(6)は「『奥尻の今』を通じて日本社会の救援の文化の貧しさを痛感させられた」と指摘していた。
 阪神大震災では、どうだっただろうか。被災地や被災者は、国内外からの支援を受けながらも、残されたポテンシャルを活かして、復興することができた。それは、奥尻のように何でもかんでもじゃぶじゃぶと義援金頼みに出来るほど、救援のリソースがなかったことが幸いしているとも言えるが、一方で被災地内からの自発的な動きが多岐に渡ってみられたこともある。しかし、被災地・被災者のポテンシャルが十分、活かされたとは言いにくい。救援によって、被災者自身が被災者役割を演じて自らを弱者に陥ることがないよう、どうすれば「エンパワーメント」する救援ができるか、考えておくことが必要である。
 生活再建のための最初のステップは、災害救助法の応急救助である。「毛布とおにぎり」レベルからスタートした阪神大震災の時には、ニーズの後追いでプログラムを充実させていったが、その結果として一部の人には「ゴネ得」に見えるようなことも生じた。時間が経つにつれ、支援のボランティアたちの中からも「自分たちがやったことが、十分、自立支援になったのか」という声もでてきた。
 被災地に住む人たちが、自分たちのポテンシャルを活かして、相互に共生しながら生活を復興させていくために、行政やボランティアらが過剰にニーズを探して応えていくと、救援者に頼りすぎて被災地や被災者自身の活力をそぎかねないのだ。
 被災地の住民が、理不尽な結果を被らせた被災によって、いつまでも打ちひしがれているだけではくらしは再建・復興できない。何らかの気持ちの折り合い、納得を付けつつ、再建・復興に立ち上がっていかねばならない。そのために、救援する側がすべてを先回りしてしまわないことも、意識せねばならない。これが、効率を優先するだけではいけないポイントである。もちろん、最初の72時間のような、可能な限り命を救うために使う時間は別であるが。
 大切なのは、また復興落差を感じず、互いに助け合おうとする気持ちが強く共有されている「災害ユートピア」(阪神大震災では1週間後から1カ月以内とも、3カ月以内ともされる)の時期に、何が出来るかだと考える。この時期に、住民や、ボランティア、専門家、行政が、それぞれに、また互いによりよく協働する仕組みを作ることで、互いに支え合ってのくらしの再建、まちの復興への道筋がたてやすくなる。兵庫県が実施した震災対策国際総合検証事業で、応急救助の項目を担当したイアン・デービス(7)は「30年間の国際的な経験事例からも『難局に立ち向かう意欲』を活用することが是非必要」と指摘している。
 野田が指摘した貧困だった救援文化は、幸いなことに少しずつ根付いてきている。阪神大震災以前から、被災地を襲う2次災害とも言われてきた古着の救援物資は、この豊かな時代に支援する側から一方的に「これで十分」と押しつけられた気にさせるものともいえ、最後の処分はどこの被災地でも困惑したが、最近の災害ではほぼ無料受付は行われなくなり、被災地に求められる選択的な救援物資の受け入れが当たり前になってきた。
 また、地震から4カ月後の95年5月に起きたサハリン地震に対し、「足元がまだ不十分なのに」との批判も受けながら行った救援から始まる30回を超える国内外への災害救援は、多くの学びを双方の被災地に届けている。ニュースで大々的に報道されない海外の災害でも、なぜ募金箱が置かれないか組合員から指摘されるとコープこうべの関係者が語るほど、被災経験が他の地への思いにつながっている。
 この経験をつなげ、市民レベルの勉強会などを重ねながら活動しようとしている神戸の海外災害援助市民センター(CODE)と、外務省とも連携してNGOとして最大の効果を発揮しようというジャパンプラットフォームの方向は、日本の救援文化を発展させるにはそれぞれに大切であろう。CODEを母体に、震災当時、アルジェリアから贈られ、一時は集会場に使われた大テントへのお返しをと、2003年5月のアルジェリアの地震の救援キャンペーンとして「HYOGO〜アルジェリア お返しテント募金」が行われているのも、まさに被災地らしい取り組みだ。支援に感謝するだけでなく、他の地を支援することで、痛みの分かち合いや自分たちの被災を客観視にもつながることであり、復興への欠かせない要素ではないかまで考える。

身近なことから始める。成長なき時代の復興まちづくり

 現行の災害救助法は、阪神大震災後にメニューが充実したとはいえ、最低限の応急救助を「給付する」仕組みだ。選択の余地がない給付を続けるだけでは、被災者の自助努力や生活意欲を低下させ、依存型を増やしかねない。私も専門部会委員で参加した厚生労働省の大規模災害救助研究会の報告書(8)では、生活再建の基本的な考え方として「被災者が自らの状況に応じて適切に生活再建の見通しをたてるためには、支援策の多様な選択肢を早い段階で提示することが重要」と記した。
 さらに、「価値対立とコンセンサス」との項を設け、大規模災害時の公的支援の量的限界や、公平性にとらわれすぎることの限界、仮設住宅への弱者優先入居が招い高齢者仮設などというように、あちらを立てればこちらが立たずと言う問題が大規模災害時には生じることを指摘。この「価値対立」を防ぐためには、平常時から「防災計画の改訂や対応のための指針、マニュアルづくり等を通じ、幅広く関係者や住民と十分な検討、議論を重ねたり、自主防災組織の育成、防災訓練、防災教育等の場でワークショップの手法を活用することなどにより、住民等のコンセンサスを形成する努力が不可欠」とした。また、阪神大震災で住宅が損壊した人の半数以上が、1週間以内に住まいに関して最も情報を必要とし、全壊世帯の半数以上が1カ月以内にその後の住まいを決定したとの調査結果から、「極めて早い段階での情報提供」が求められているとした。それは、事前に備えて置かねば出来ないことだ。
 震災後に作られた被災者生活再建支援法が、現物給付を広く解釈し、定められた範囲の中ではあるが、被災者自身が自分自身で生活再建に必要な電化製品などを購入することができるようになったのも、それぞれのきっかけ、手がかりになっていくのではないだろうか。改正に向けた議論が行われ始めているが、エンパワーメントにはどうすればよいのかという視点を忘れてはならない。
 先に紹介した東京都の震災復興マニュアル復興プロセス編が、生活再建や復興の主役である地元自身が考えて決めていく過程を明確化し、起こりうる問題を先取りして平時から考えておこうとの方向性を明確に打ち出していることは評価される。まちづくりに欠かせない、お祭りやイベントでの参加を促す要素も押さえている。ただ、まちづくりへの合意形成の視点が中心であり、くらしの再建のなから見えてくるまちづくりの域には達していないのは残念である。一人一人の生活再建が、地域のそれと密接につながっているイメージをどう持っていけるのかが、価値対立の中での合意形成につながっていくと考える。
 これは、神戸市でも同様だったのかもしれない。被災以前から、全国的に見て住民参加のまちづくりへの取り組みが熱心に行われていた神戸市では、地震から2週間も経たない段階で、専門家の知恵を借りて復興まちづくりに動き出し、早すぎたと批判もされた行政による都市計画決定よりも早く、共同化住宅の発注先まで考えていたところもある。それが故に、日頃からの取り組みの大切さが求められているのだが、もともとそういう地域は郊外や道路問題など平時に解決すべき大きな問題に取り組んでいたところが少なくないのであり、何もなかったところは、行政とのボタンの掛け違いも含めて、価値対立を超えるのが大変だった。それと、かつての都市計画が前提にしていた、実施によって価値が上げるという右肩あがりの社会ではなくなってしまっていることも忘れてはならない。
 大半は、たいした問題がないと思って暮らしていたところに、いきなり山ほど問題が出てくるのが災害である。いきなり、そこでまちづくりと言われても、困難なのは目に見えている。だからこそ、平常時からなのであり、そこには防災の視点だけでなく、まちの良いところ探しや、魅力アップのワークショップなど、さまざまなまちづくりの手法が持ち込めるだろう。これは、そんなにギリギリのテーマでないところで、互いの合意形成を図る訓練でもある。
 実際に地震が起きた後に、そんな悠長なことはやっていられない。短時間に利害が絡む意志決定を強いられる時に、「価値対立とコンセンサス」の問題を超える一つのカギは、避難所での共同生活ルールを自分たちで作って守っていくというような、新たな被災後生活の地域ルールを、自分たちで作り、守っていくというようなことから始まるのではないか。自分の家にいるならば、必ず掃除や炊事をする。トイレ掃除をボランティアに任せないで、ローテーションルールを作るとか、炊事や物資の配給当番を作るとかしながら、徐々に暮らしを自分の手に取り戻しながら協働していくのだ。配給のお弁当を食べるだけの避難所暮らしであってはならない。人は、何かしら自分の役割を見いだすことで力が出てくるのである。
 かつて、避難所での行政と市民の協働を進めるためのカギは何かという議論をしたときに、「体育館の床に座っている人と話すときに、自然にしゃがんで同じ目線になって話せるセンスを持っているかどうか」という指摘が、ある行政マンから出されたが、そのような些細なことで、災害ユートピアの幻想が共有され、相互にエンパワーメントされていくと考える。
 復興土地区画整理事業を最も早く終了させた長田区の鷹取東第1地区でまちづくり協議会副会長を務めた古市忠夫氏(プロゴルファー)は、2度と地震で人が死んだりしない安心なまちを再建しようと心に誓い、まずやったことは、地域での合同慰霊祭だったという。各地の避難所でも、慰霊祭が行われたところは少なくなく、また被災地の至る所に慰霊碑がある。辛い気持ちに寄り添い、向かい合った上で、次のステップを踏んでいくことも大事なのだ。
 ニーズの後追いではあったが、できるだけ現場に寄り添って支援策を作り上げていく役割を果たしたのが被災者復興支援会議だ。そこでは、専門家や学識者、NGOらのメンバーが県職員のプロジェクトチームと一緒に現場で膝詰めで話を聞くという、140数回に及ぶ「移動いどばた会議」が大きな役割を果たした。既存社会の仕組みが地震で壊れた後に、さまざまなすき間を埋めていく仕組みが必要になるのだ。
 何が起きているのかを、分からないままに、地域で自分たちの力だけでやってしまおうとしかねないのも問題になる。避難所暮らしの改善策として制度化したパーティションを、「以前はなかったし、つながりにくくなる」と拒否した有珠山の避難所自治会長には、乳飲み子を抱えた母親や、女の子を持つ家庭への配慮という視点が欠けていると言わざるを得ない。支援や救援をする側の問題もあるが、受ける側が扉を閉ざしてしまいかねないのも問題となる。自治会や自主防災という地縁系の組織と、NPOや専門家など知縁系のそれぞれがもつたこつぼ的な発想を超えて協働していく道筋を、平常時から備えていくことも、くらしの再建、地域の復興には欠かせないと考える。その中では、単純な居住以外の役割を持つ企業市民や、商店街などの参画が重要であろう。
 生活の再建や復興に、唯一解があるとは思えない。複雑で高度化した社会で、地域ごとに違う被災の様相を自分たちも見極めながら、くらしの再建と地域の復興を果たしていく。事前に問題を先取りし、対応策を考えておくという発想は危機管理と同じであるが、ぐっと足を地にふんばり、効率や公平の罠に落ち込まないものでなければ難しい。地域単位での住民が主役の図上訓練で、今年の防災白書にも取り上げられたDIG(Disaster,Imagination,Game)が、地震直後の課題をイメージさせてくれるように、半月後、半年後、3年後、10年後にその地で何が課題になっていくのかをイメージできるような手法を作りだすことも考えていきたい。

文献
(1)中川和之:近代消防,437,p83(1998)
(2)中川和之,季刊都市政策99,勁草書房,(2002)p65〜80
(3)内閣府,我が国の災害対策(2002)p7
(4)宮崎ふみ子,ドキュメント災害史1703-2003(2003)p142〜151
(5)中川和之,月刊フェスク,254,p4(2002)
(6)野田正彰,災害救援,岩波書店(1995)p48
(7)イアン・デービス,阪神・淡路大震災震災対策国際総合検証事業検証報告第2巻(2000)p147
(8)三浦文夫、松原一郎ほか,大規模災害救助研究会報告書(2001)

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