被災地から日本の「都市」の将来が見えた
−阪神大震災4年−それで神戸は再生したのか−


「時事解説」99年2月5日号(時事通信社刊)

時事通信社
        神戸総局・中川和之


 見渡す限りがれきとなったあの一月十七日から四年。阪神大震災の被災地を訪れる海外視察者が、口を揃えて「驚異的に早い復興だ」と語るように、都市のインフラである道路や鉄道にとどまらず、住宅戸数も総量は復興計画を上回り、主なハードは再生した。しかし、ハイカラさと新しさの同居が魅力だった神戸のまちは妙に小ぎれいになり、十年、二十年先の時代を先取りしたような超高齢化した居住者が住む復興公営住宅などの問題も横たわる。一方で、住民と行政とが連携して課題に取り組む「協働」は、徐々に成果を生みつつある。建物や住まいの再生と、コミュニティや人のつながりの再生の視点から、被災地が一足早く直面している近未来の都市が抱える共通の課題への取り組みを紹介する。

【住宅再建率に二つの数字】

 神戸市のまとめた住宅の再建状況によると、東灘区の住宅再建率は、昨年十月現在で一一一%となっている。六甲山と大阪湾にはさまれた南北二−三キロ、東西四キロ程度の狭い地域に住宅が集中し、そのかなりの部分が震度7の揺れに襲われ、同市内で最も死者が多かった地域だ。被害が集中した六区でマイナスとなっているのは長田区八五%、須磨区九九%だけ。灘区は一一九%、中央区一一六%、兵庫区一一二%と、量的には失われた戸数を上回っている結果となっている。
 実際、同市の調査で民間賃貸マンションの空き家率が震災前の九三年が一〇−一五%だったのに、昨年秋の段階で一五−二〇%、新規の分譲マンションの売れ残りが昨年は約二五%と、既に供給過剰の状態だ。公的住宅が復興計画通り建設される一方で、民間復興住宅が昨年一月の段階で既に計画の倍近く建てられたからだ。
 一方で、街を歩くとまだまだ空き地は目立つ。駐車場となっているのはまだましな方で、塀や生け垣はそのままにして建物だけが撤去された場所も少なくない。
 それを裏付ける数字もある。神戸大学の平山洋介助教授(人間環境科学)が灘区の南東地区で、震災での倒壊や解体後の敷地の再利用状況を調査し続けた結果、約二千三百の敷地で何らかの恒久建築物が建てられているのは、今年一月現在でも六九・九%にとどまった。残りは、解体しての空地一四・八%、駐車場九・六%などだ。同様に神戸商船大の東灘区東部の定点観測でも、三七・九%が更地のままか仮の利用だ。
 神戸市との数字の違いは、同市が意図的に作ったものではない。神戸市が戸数をベースにし、平山助教授らは敷地数に基づいているからだ。ではなぜ、更地のままで放置されているのだろうか。区画整理などの遅れで個人住宅を再建できないケースもあるが、今も仮設住宅に残った人のうち、自宅再建待ちとされるのは全市で一千世帯もいない。総量としては住宅数が満たされてしまった中で住宅ニーズがないために、更地のままとなっているようだ。

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【姿を消した「文化住宅」】

 これらの地区はどうなっているのか。平山助教授の調査で、震災前は三百五十七棟あった関西で「文化住宅」と言われる木賃アパートや木造の長屋が、一月現在で十二棟とほぼ姿を消し、マンションが七十七棟から百七十八棟と急増していることが分かった。
 家主が再建にあたって、より高い家賃を取れて戸数も多いマンションを選択するのは、経済合理性から当然の結果だろう。この傾向は、灘区だけでなく他地区でも同様だ。市内を約二千八百区分してまとめた同市の調べでは、長屋や木賃アパートが多い地区は震災前の四から一となっている。この結果、一−二万円という家賃で生活していた中高年が行き場を失い、復興公営住宅に入居するケースが多い。公営住宅も家賃補助でほぼ同水準での入居が可能だが、補助期限への不安から仮設住宅に残る人もいる。
 どこの都市でも、一定の木賃アパートは存在する。東京でも山手通りと環状7号線の間は「木賃ベルト地帯」とされ、放置すれば首都圏の地震で多数の倒壊が見込まれ、解消対策が進められている。神戸では、一気にその対策に直面した。
 そこは、経済的には自立が難しい低賃金や年金生活者が、行政の補助に頼らずに自立して暮らせた場所だった。また、地域のつながりも深く、相互の人命救助も積極的に行われたのもこういう地域だった。これらの人が、自立して生活再建できるような地域での仕事「コミュニティービジネス」の創造に、被災地の官民が連携もしながら取り組んでいるが、不況の中で思うようには進んでいない。地震に弱い地域の解消は、単に建物の弱さを解消するだけでなく、経済も含めた視野を持つことが必要となる。
 阪神・淡路まちづくり支援機構代表の広原盛明前京都府立大学長は「これまでの都市計画は私を含めてハードのプランナーが中心。都市問題の解決は、足りないものの供給、宅地やインフラ施設の供給にあった。バブルがはじけ、経済が従来通り成長しない中で、被災直後に従来型の都市計画を目指そうとしたのは間違いだったのではないか。体力が弱っている人にいきなり大手術をしたようなもので、二一世紀を迎える時期に、時代の流れを見誤ってしまった」と指摘する。

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【うるおいが減った住宅街】

 平山助教授の調査地区では、再建された戸建て住宅の五割がプレハブ、四割が三階建てだ。「たいてい一階は駐車場、インターホンもカメラ越し。壁はパネル構造で緑も少なく乾いたまち。近代的、経済的な指標で整理され過ぎた」と平山さんは嘆く。
 震災直後ほどプレハブ信仰はなく、木造でもきちんと建てられれば地震に強いことの理解は進んでいるにもかかわらず、大工の不足もあって全国から動員が可能な大手ハウスメーカーが次々に家を建てていく状態だ。この地区では、かつては一軒に二、三部屋はあった和室が、震災後に転入した世帯では一部屋以下が七割近い。引き戸や縁側も姿を消し、代わって玄関先にシンガポールの「マーライオン」が飾ってあったり、妙にけばけばしい洋風の家も目立つ。
  北に六甲山、南に大阪湾、そこを下る坂沿いにあった落ち着いた雰囲気のまちが神戸の魅力でもあった。平山さんは「まちのデザインに文脈性がなくなり、他の地域と同じになってしまった。都市の特徴である開放性、混合性、複雑性も衰退し、経済原理で説明がつくことばかりで、都市らしい分かりにくいものがなくなった」という。
 ただ平山さんは「住民の二人に一人は『このままでは味気ない』との感想を漏らしており、これから少しずつまちの景色が戻ってくるのでは」と期待をつなぐ。震災後は、区画整理などの目的もあって、神戸市内に地域住民が主体となったまちづくり協議会が六十八地区で生まれた。ここでは、区画整理などの協定にとどまらず、大規模商業施設などに頼らないで自分たちのまちを作りだそうと専門家や行政との協働が始まりつつある。

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【ルミナリエを育てたビジネス街】

 震災で亡くなった人の鎮魂と復興を目的に、一九九五年の年末から始まった神戸ルミナリエ。昨年末には五百万人を超える見物客が訪れた。色とりどりの電球によるまばゆいばかりの装飾と、賛美歌のメロディーをイメージした荘厳な音楽は、見る人を引き込み、そして復興に向けての勇気と力も与えてくれている。
 その場所は、神戸開港時に外国人が住んでいた旧居留地にある。大丸、さくら銀行、日銀神戸支店、NTT神戸支社などのほか、大手企業が入居する事務所ビルなどのある神戸のビジネスセンターだ。この地区の百六のビルのうち、二十二棟が大きな被害を受けた。
 地域問題研究所の山本俊貞さんの調査では、昨年十月時点で十二棟が再建、五棟が建築中、暫定利用が四棟で、空き地は一カ所だけ。立て替えた事務所ビル八棟をみると、古くからの海運関連業が減り、一階にブティックなどの小売業が増えている。古いビルの大理石を外観に残したビルや、跡形もなく廃材の山となったかに見えた文化財の旧神戸居留地十五番館も再建され、ショッピングも楽しめるルミナリエが開かれる街として新たな人の流れもできてきている。
 ここでは、この地区の企業関係者が古くから旧居留地連絡協議会を作って、日頃からさまざまな交流を重ねていた。そのつながりが、ビルの外壁にイルミネーションを固定するワイヤーを張ったり、期間中は夕方から車の出入りもできなくなるルミナリエをスムーズに開催させることを可能にした。
 想像もしていなかった大規模災害の復興政策を、より急いで効率的に進めた反省もあってか、兵庫県が「人間サイズのまちづくり」、神戸市も「コンパクトシティ構想」を提唱する。居住地、商業地、ビジネス街などと分けるゾーニングの手法から、それらが雑多に入り交じり生き生きしたまちを再演出したニューヨークのソーホー地区の再開発をきっかけに、世界的に注目された次世代の都市計画の考え方に通じるものだろう。事務所ビル街で観光資源となるルミナリエを育てた旧居留地は、連絡協議会という人のつながりで次世代の都市のあり方を示した。被災地でのキーワードとなっている「創造的な復興」の一つの見本だ。

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【地域のつながりの再生】

 旧居留地連絡協議会にはもう一つの顔がある。企業の街の自主防災組織だ。この、旧居留地連絡協議会防災委員会は例外的な存在だが、同市では地域の避難所となる小学校区を単位とする防災福祉コミュニティ作りを進め、昨年末現在で、市内八十地区で結成されている。全国各地で作られている一般的な自主防災組織と同様、自治会中心のところが多いものの、新たに組織を作るのではなく、学区単位で既にある地域団体の防災部会などの形も少なくない。
 ここで同市が取った手法は、かけ声をかけるだけでなく、地域ごとに活動の中心になる人材を育てるやり方だ。同市に神戸大学が協力して一昨年から開かれている「こうべ市民安全まちづくり大学」には、地域の自治会関係者だけでなく、社会人も参加し、中にはこの場での勉強をきっかけに大学院に社会人入学した女性もいるほど。一年間学んだ後、地域での活動を行う意思のある人は「市民安全推進員」という肩書きを持つ。
 講座では、防災に関する基本的な知識のほか、地域での防災訓練をどう人が集まれるイベントにするかや、防災マップの作り方、災害図上訓練の実践などを学ぶ。運営には、同市の窓口課だけでなく、関係各課の若手職員があたり、受講生も入った企画会議はわいわいがやがやと議論しながら講座の内容を検討。安全推進員らが中心になって地域で作る学区単位の防災マップには、避難所や病院、耐震水槽などだけでなく、震災時に人命救助で活躍した大工さんや工務店の所在地まで掲載している。
 同市垂水区で団地と戸建て住宅が混在する多聞南小の学区で、多聞南ふれあいまちづくり協議会防災部長を務める内田浩義さんも同講座の卒業生だ。今年の一月十七日の防災訓練は、事前の被害想定から訓練シナリオ、当日の進行まで、地元消防の知恵を借りながら住民主体で行った。内田さんは「今後も、防災マップを使ってウオークラリーを開くなど、楽しんでもらうしかけも考えたい」と話す。防災や安全を目的に置きながらも、住民が地域を見直し、自分たちの手でまちづくりに参加する新たな都市でのつながり作りに寄与している。

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【ネットワーク生かした救援ボランティア】

 阪神大震災で一気に注目された災害時のボランティア活動。震災後も、日本海の重油災害で大量のボランティアが活動し、昨年も北関東や東北の水害、高知の水害時にも被災地での経験が生かされている。災害時の活動経験を重ね、団体間の相互のネットワークができてくるに従って、活動の仕方は徐々に変化してきている。
 重油災害時にナホトカ号の船首が漂着した三国町でボランティアの本部立ち上げにかかわった災害救援研究所の伊永勉代表は「今起きたら、あんなにすぐにボランティアを活動させることはなかったのではないかと思う」と話す。地元との連携がある程度できたとされる三国町でも、外部からのボランティアと地元の意向のずれは少なくなく、回収の終了時期などでもめた。安全対策をとらないままで危険な溶剤も使っていた。対策が進んでいる米国では、重油回収に関与するボランティアには事前の学習を経た資格を求めており、事情を知らない他地区の素人が大量に入り込む形にはしていないという。
 その経験から、昨年の水害時には、震災を通じてつながりができていた福島県や栃木県のボランティアグループを外部のボランティアが支援する形をとった。家屋に流れ込んだ土砂の除去、畳や家財道具の運び出しなど、一時的な活動なら誰にでも手伝えそうな作業だが、その地域の復旧、復興を長期的に支援できるのは地元が中心でなければならないからだ。
 さらに、地元に受け皿となる団体がなかった高知では、神戸などから地元の連携組織作りを支援して、地元で行政と民間が一体となって救援活動ができる枠組みができた。これらの動きの中心には、被災地で活動を続け、経験を重ねたボランティア団体のリーダーたちが存在する。
 また、震災後、同じ年の五月に起きたサハリン大地震を始め、海外での災害に対する国際救援活動の内容も変化しつつある。サハリンの際は、神戸に寄せられていた大量の救援物資などから役立つ物資七十トンをコンテナで送り、一千万円近く集まった義援金は大半送料に消えた。その後は、徐々に被災した国まで現金を持ち込み、そこでその地域にあった必要な物資を現地で購入する被災国経済への寄与も考えた方式に変更し、さらに現地国で活動する日本やその国のNGOをパートナーとしてそこを支援したり、昨年十月に中米を襲ったハリケーン「ミッチ」の被災地への支援は、地元が主体の救援組織体制が作られるような支援を目指している。
 阪神大震災地元NGO連絡会議の草地賢一代表は「われわれも経験を重ねて学んできた。ボランティアは、国際間の救援競争で一番乗りを目指すようなことをせず、民間ならではの役割があるはず」と話す。行政や民間企業に加えて新たな社会セクターとして期待されるNPOも、神戸で着実に育ちつつある。


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