継続する活動から学びつつ発展


=災害・救援ボランティアの現状と課題=

全国社会福祉協議会「月刊福祉」2000年3月号

(中川和之・時事通信社 神戸総局)

 阪神・淡路大震災は、その被害の大きさによって人々が誰かに役立ちたいという気持ちを揺り動かし、延べ150万人を超えるとされるボランティアが被災地で住民のためにとさまざまな活動を展開、1995年は「ボランティア元年」と称されるようになった。
 そこで活躍した人たちを中心に、災害時に活動する「災害・救援ボランティア」が継続的に必要ではと、震災の被災地での活動を続けるとともに、経験者たちが各地で活動を始めた。筆者も、日本海の重油災害や水害時に現場活動をサポートしながら見守ってきた。ここでは、多く伝えられている阪神・淡路大震災直後を除く、その後の災害時での活動や、災害を想定した日常活動を中心に、現状と課題をまとめた。

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多方面に活動が広がった被災地のボランティア

 阪神・淡路大震災の被災地でのボランティア活動は、仮設住宅への入居が始まり、大学生の新学期開始もあって被災地外からのボランティアが大勢活躍する時期を終えた。初期は、避難所の運営支援、炊き出し、物資の仕分けなど、避難所を中心に活動が行われた。避難所の運営は、住民・自治会主体、学校・施設管理者主体、ボランティア主体などのパターンがあったが、学校再開、避難者の減少などによって、ボランティアの活動の場が減っていった。変わって仮設住宅の建設、入居が進むにつれ、仮設住宅居住者への支援に移り、個人よりもグループや組織単位でのボランティア活動が中心になり、個人ボランティアはそのグループに参加する形で活動していた。
 仮設住宅では、仮設団地内に設置されたふれあいセンターを活用した居住者対象のお茶の会などのイベント提供やサポート、炊き出し、安否確認を兼ねた居住者訪問などを行っていった。ボランティアたちも、より地域密着型のグループ・組織活動が増え、当初はボランティアとの「協働」に慣れていなかった行政や警察、消防などとも徐々に連携し、仮設住宅の自治会や行政などの関係機関と定期的な情報交換も行った。仮設には高齢者が多く、通常の高齢者向けに施設や地域で行われる福祉ボランティア活動で行われる活動内容と重なっていく。さらに住宅再建が進み、復興公営住宅への入居が進むにつれ、従来からの地域福祉ボランティアの延長線上にプログラムできるものが増え、避難所お手伝いから仮設支援、復興住宅支援と継続して、地域の福祉ボランティアに参画する人たちも増えた。
 これら、多くの被災者に直接向き合う活動以外に、さまざまな活動が災害ボランティアから生まれた。対外貿易の盛んな神戸には、以前から定住外国人が多く、震災当時に外国人支援が課題になった。その支援の延長での外国人たちへの相談電話や交流イベントが定着。さまざまなレクリエーション活動が心のケア活動の一環として展開された。また、被災経験を伝えるために、被災地のがれきをトラックに積んで語り部として全国各地の催しにでかけたり、被災地でのさまざまな活動や記録を整理して残す活動も行われた。1月17日の記念行事を自治体とも協働して行うようになってきた。被災者が暮らしを取り戻すためのコミュニティービジネスの試みも展開されている。パソコンやネットワークの発達で新しい形の活動として生まれた情報ボランティアも、地域で学校インターネットに協力するなどの活動を展開している。

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評価と課題の検討は活動の中から徐々に

 阪神・淡路大震災での災害・救援ボランティアのいずれの活動も、現場での試行錯誤の中で悩みながらも展開し続けたものばかりだ。当初の活動がすべてプラスに評価できるものではないということは、彼ら自身も認識している。ニーズに応えるとして行われたさまざまな活動だが、被災者を支援漬けにして依存心を持たせないような工夫が当初からなされていたとは言いにくい。被災地の住民のノーマライゼーション、エンパワーメントを引き出す救援、被災者を弱者にしないという視点に欠けていた。自治体自体の不慣れもあり、被災者のためには相互に協働すべきなのに、初期には過剰な対立関係を作りすぎたこともあった。その中で、自立して復興していく被災地・被災者に教わりながら、試行錯誤して支援を続けていったのが実態だろう。
 震災の被災地がまだまだ復興途上にある段階にも、国内外で起きた災害に阪神・淡路大震災のボランティア経験者たちが活動した。その活動が、災害・救援ボランティアの課題整理にも役立った。
 国内の災害では、97年1月の日本海でのナホトカ号の重油流出事故で沿岸に重油が漂着した直後の段階から、阪神・淡路大震災で活動したボランティア経験者が駆けつけた。船首が漂着した福井県三国町で活動を開始。外部からの救援と地域社会との連携がスムーズに行くよう、当初から地元の社会福祉協議会や地元青年会議所が現地の母体となるなど、その立ち上がりぶりは「震災の経験が生かされた」と評価され、沿岸各地で30万人にも上るボランティアが活動した。しかし、この際の活動は振り返ると課題が多いものだった。
 まず、極寒の日本海での作業によって地域住民5人の命が失われた。地域社会では「ボランティアさんが来てくれているのに自分たちも頑張らねば」との思いが強く、そのことが心臓に持病を持つ人まで回収に巻き込んでしまったのではないか。油漂着自体では人的被害が出ていないのに、なぜ回収作業によって命が失われねばならなかったのかと個人的に強いショックを受けた。
 また、きれいにすることを至上とし、環境負荷が油より高い薬剤なども使われていたし、活動をいつまで継続するかなどを巡って、応援組の一部と地元との間であつれきも生じた。アラスカでの油流出事故の経験がある米国で油回収のボランティアに一定の研修を義務づけていることが、ボランティアの関係者に伝わったのは作業がほぼ終わった後だった。当時、立ち上げにかかわったコーディネーターは「今となっては『すぐに現地に入るな』と言うべきだった」と語る。実際、同年七月に東京湾で起きた原油流出事故では、流出量が少なかったこともあるが、「被害を見極めろ」「原油は重油より危険だ」「あわてて動くな」などの情報がボランティア関係者の間を飛び交い、落ち着いた対応ができたが、これもナホトカ事故の反省からだった。
 一方、98年の夏から秋にかけての東北南部・関東北部での水害、高知での水害時で、ようやく救援のあり方が整理されてきた。外部からの救援ボランティアはまずパートナーとなる地元団体と連絡を取り合い、被災地で必要となる物資の見極めや、不足するボランティア受け入れのコーディネーターの送り込み、ホームページでの情報発信のサポート、水害時の活動経験のある団体との連携調整、地元自治体との調整などをサポートした。福島県や栃木県には、阪神・淡路大震災での支援経験などがある団体が、震災後も継続してネットワークを作っており、そこが核となった。
 また、高知では地元社協などの既存団体が地元自治体も含めて相互に連携できる受け入れ母体となり、そこに対するコーディネーター支援などを行った。外部からはあわてずに情報を収集し、連携先を確認して、地元で不足する部分をサポートするにとどめ、主導権はあくまで地元を徹底することができた。平常時からネットワークがあった福島、栃木と、災害後からスタートした高知では、当然のように立ち上がりに差が出たが、電子メールなどを通じた情報交換がさまざまなルートで行われ、それが現場をサポートした。

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物資の支援から金銭、経験の支援に変化

 海外での大地震への支援にも阪神・大震災で活動したボランティアが行動した。震災の年の5月に、ロシアのサハリンで起きた地震の際には、神戸のNGO団体の呼びかけでコンテナ13本、計70トンの衣類やカセットコンロ、ガスボンベなどの救援物資などを送り込むなど、当初は物資が主体だった。しかし、(1)日本からの物資輸送にコストがかかる、(2)現地の主要都市で購入して被災地に持ち込む方がその土地やニーズに会った物資が調達でき、被災地経済にも寄与する−などから現地購入方式が選択されるようになった。被災地が混乱していると、物資や義援金が被災者に届かない恐れがあることも、この間の支援で学んできた。
 このため、集められた義援金を日ごろからその地域に支援を行っている日本のNGOに託したり、現地カウンターパートのNGOを通じて学校再建資金の提供を行うなど、信頼できる相手を探しての支援も行われた。さらに99年のトルコの地震では、何度も現地入りして被災地の住民たちの自治組織と接触し、住民自身が主体的に活動するための住民センター開設に資金を提供するという、ノウハウを含めた支援にまで変化してきた。実際、同年11月に起きた2度目の地震では、「被災地神戸からの支援を受けて、自分たちにもできることに気づいた」と、最初の地震での被災地から救援チームが新たな被災地の救援に立ち上がっている。被災者にとって、被災体験を持つ地域からの救援は心強いのだ。
 これらは、主要な団体の活動をなぞったものだが、国内からの物資支援、現地調達の物資支援、資金支援、さらに経験の支援と変化している。それは、阪神・淡路大震災の際には試行錯誤だった「被災者の自立支援」とは何なのかが徐々に経験を通じて理解されてきたことが大きいだろう。また、人命救助や災害医療、応急救援の体制を取らねばならない行政や専門機関、救助犬など一部の特殊技能ボランティアと異なり、災害が起きたとの情報をキャッチしたら直ちに情報収集をしながらカウンターパートを見定め、いきなり大挙して現地に入ることは避けている。被災地の混乱を助長して負荷を増やさないよう、その地域や国を知り、被害を把握し、現場の状況を見極めてどういう救援が有効なのか考えながら活動するようになってきた。ボランティアレベルでのコーディネーション能力が徐々に向上してきたのだ。

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平時から情報の中継に活躍

 現場での直接支援ではない情報ボランティアの活動は、阪神・淡路大震災時には利用者が少なく、現場での救援活動のサポートには一部でしか役立たなかったが、インターネットの普及で広がりを見せている。日本海の重油流出事故、98年の水害などで現場からホームページでの情報発信をサポートし、ボランティア活動をしようとする人への注意事項や活動内容をを伝えた。重油事故の際には、まだ内容が不十分だったが、行政などの専門機関からの情報発信が増えたこともあって、どのような情報が役立つかリンクをしながら整理が進んでいる。
 また、電子メールの利用者が増え、平常時から救援の関係者がメーリングリストなどを通じて、情報交換をするのがあたりまえとなり、そういう場での情報コーディネートを情報ボランティアが行うことも増え、平常時の災害ボランティアのネットワークが拡大。そこには、ボランティアの活動を支える研究者や自治体関係者も参加、筆者も情報交換に加わっている。
 また、地域ぐるみでの災害ボランティアの日常活動で、もっともユニークなのは三重県での試みだ。大震災や重油流出事故での現場や後方支援したメンバーが中核となった県下各地の災害ボランティア団体がまとまり、県の地域防災計画でも災害時のボランティア受け入れ対応を行うと位置づけられている。防災マップ作りや図上訓練、各種イベント支援を通じたボランティアコーディネートの実践などを、ボランティアが主体となって自治体や企業などとの協働で実現。各地の災害ボランティアたちの手本ともなり、他の自治体からも注目されている。

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人材育成や既存組織との連携に課題

 阪神・淡路大震災以降、災害時のボランティア活動が災害対策基本法にも盛り込まれ、各省庁や自治体でも位置づけが求められた。しかし、既に見てきたようにその活動は多種多様であり、行政など既存組織の領分になかなか当てはまらない。何らかの形で行政との協働の場がある既存のボランティアが、カウンターパートとしての行政セクションが明確である場合が多いが、災害ボランティアの活動、特に中核になるコーディネーション業務は、自治体の災害対策本部の民間版ともいえ、平時には協働の相手がいない。医療従事者や建築士など専門家としての災害ボランティアの活動が、明確に位置づけられやすいのと異なる。
 省庁や自治体、関連団体などで、災害ボランティアの育成や災害ボランティアコーディネーターの育成が行われている。それは、被災直後での相互救助での生き残り策からせいぜい避難所への避難までで、行政機関的には消防の領域にとどまっている。それは、地域住民が自分たちの身を守る自主防災のレベルアップにつながる内容ではあるが、中長期的に起こりうる災害時のさまざまな事象に対処して被災地の住民が自立していくための支援を行政と協働して行っていける人材育成にはつながっていない。
 これは、災害ボランティアも行政側も、この5年間に災害ボランティアがどう機能したか、十分総括していないからだと考える。現場で活動し続けたコーディネーターたちには個人的なノウハウが蓄積されているが、まだその共有化には至っていない。また、行政側にも既存の縦割り行政の枠を平気で超える意識がないと、人材育成のプログラムまで至らないのだ。
 また、阪神・淡路大震災時に、ある部分の能力を持って救援に貢献した既存組織団体の能力の分類・整理もまだ未整理だ。例えば、物資の仕分けに活躍した百貨店労組、数万人のキャンプでの物資配給の能力を活かしたボーイスカウトなどが、災害時に広く社会的なリソースであることがその組織内でも認識されていない。
 行政能力や専門機関の限界、被災地の住民の限界を踏まえ、被災地・被災者の自立支援のために、災害ボランティアから何がなされるべきか、なされないべきか、残念ながらまだまだ未整理だ。震災5年を契機に、国土庁の補助金を受けて神戸市内に開設される県立の「阪神・淡路大震災メモリアルセンター」(仮称)では、今後の人材育成などにも取り組む計画だ。多くの救援でここまで復興できた被災地として、国内外に通用する災害・救援ボランティアの活動につながる課題の整理や、人材育成策に取り組むことを期待している。


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