連載・「防災施策と情報提供 災害の影響を少しでも軽減するためにどうすればよいか」(11)

張り紙で何をコミュニケーションするか 13年ぶりに分かった赤枠の伝言メモ用紙

月刊『広報』(日本広報協会、2008年2月号)

 中川和之 時事通信社編集委員

 阪神大震災で、地震発生から11日たった1月28日、缶詰状態だった取材拠点の神戸総局から外に出て、気象庁の知人らと被災地を見て回りました。夕方近くになって、神戸市役所を10日ぶりに訪れました。大勢の災害対策要員が出入りする1階ロビーは、災害対策のために神戸市職員らが慌ただしく出入りする一方で、避難者が毛布にくるまっているという異常な状態が、常態と化していたように感じました。そこで、目に着いたのが、壁に貼られた伝言用の赤い紙でした。「私はここに居ます。」と大きく書かれ、英語版の「We are here.」もありました。よく見ると、壁際に置かれた数個の段ボール箱には、同じ紙の束が大量に入っていました。「神戸市役所がいつのまにこんなことをしたんだろう」と関心して、見本として数枚を拝借し、8階の災害対策本部に上がってたずねてみたのですが、分かったのは市が印刷したものではないことだけでした。

 翌29日、火災で焼け野原となった長田区の鷹取商店街を歩きました。どこに家が建っていたのか、まったく分からなくなっており、「いったいこの地でどれだけの方が犠牲になったのか」と絶望的な気持ちになっていた私の目に飛び込んできたのは、前日、市役所の1階でみた赤枠の伝言用の紙でした。名前と近所の集会所にいるとの連絡先と共に、「家族全員無事です」と書かれており、ガムテープでかろうじて立っている電柱に張ってありました。気が付くと、周囲にいくつもの手書きの伝言メモが目につきました。これらの張り紙は、心配で尋ねてきた知人らに連絡先を伝えるという本来の目的だけでなく、「私たちは無事です」と訴え、焼け野原になったその地で暮らしを再建するぞという決意表明にも受け取れ、難局に立ち向かう意欲を発信していたように感じたことを覚えています。

◇広告のプロが持ち込んだ伝言用紙

 翌月になって、時事通信でまとめた「大震災を生き抜く」という本を編集した際、避難生活の情報伝達の欄で「誰が持ち込んだか、市職員も知らない」として紹介。その後も、神戸市関係者だけでなく、災害情報の研究者ら知ってそうな人に聞いて回りました。分かったのは、西宮北口駅でも大量に置いてあったという証言や、他でも見たということぐらいで、制作者が分からないまま。日本語と英語版があるので日本にも拠点がある海外のNGOではないかと勝手に推測したりしていました。

 2007年10月に発行した日本災害情報学会のニュースレターに、新潟県中越沖地震での災害情報の話を書くついでに、阪神大震災でのこの張り紙のことを「赤い紙を誰が持ち込んだのか、未だに分からないまま」と紹介しました。そうしたところ、学会会員の中に、当時博報堂関西支社におり現在は国立民族学博物館客員教授の吉井正彦さんが、「実は、私の勤務先が行ったことで、当時は『あくまでも黒子』として公にはしていませんでした」と、学会事務局に名乗り出てくれました。

 これで、13年間のナゾがようやく解けたのですが、今度は広告のプロたちがどうしてこの張り紙を作るに至ったのかに興味が湧き、メールで連絡を取りながら、吉井さんに当時の関係者をヒヤリングしていただきました。その結果は、震災13年を迎えた関西の一部新聞にニュースとして取り上げられたのでご存じの方もいるでしょうが、吉井さんが調べられた結果を改めて紹介します。

◇「水や食料は誰かが運ぶ」−餅は餅屋のプロの技

 地震当日、ビルの窓ガラス多数が割れ落ちていた大阪・中之島の博報堂関西支社で、支社長代理の岩崎富士男さん(現大阪芸大教授)が、同僚の滝川忠昭さん(同)と、「広告会社として貢献できることはなにか」と相談をしたそうです。ここで、自分たちの仕事の復旧でなく支援を考えたと言うところが、当時の日本中の気持ちを表していたように思います。被災地に駆けつけたボランティアは延べ140万人とされていますが、市民だけでなく、企業や霞が関の官僚たちも含めて、みんながボランティア的な発想にあったのではないかと思います。

 何をしていいか分からないまま着の身着のままで現地に駆けつけたり、オニギリと衣類と現金を一緒に入れた救援物資を送ったりと、被災地に混乱を増やすことにもなった支援が少なからずあった中で、CMでは世界のコンクールで賞を多数獲得するベテラン制作者だった岩崎さんと、マーケティング戦略ではベテランの滝川さんたちは、「水や食料は誰かが運ぶ」と言い切り、広告会社としてできることを突き詰めていったそうです。

 そこで2人が思い出したのが、1年前の同日に米ロスアンゼルス郊外で発生したノースリッジ地震のニュース映像で見た「We are here」の張り紙でした。岩崎さんが出社する途中で見てきた被災地には、既にノートや段ボールの切れ端に連絡先などを書いた伝言が張り出されていました。広告会社らしく、この用紙に協賛を募って費用に充てるなどのアイデアも出されましたが、最終的には約200万円の経費は博報堂関西支社として出し、外向けにもPRしないという方針が決定。ただちに、本職のデザイナーが被災地で目立つ赤枠に名前、住所、電話番号を書く枠を設けた版を作成。外国人も多い神戸を考えて、日英の両バージョンも作られ、破れにくい厚手の用紙でA3判とはがきサイズの2種類を作ることにしました。

 翌日から印刷にはいるのですが、大阪周辺の印刷会社も地震の被害を受けて、なかなかまとめて印刷してくれるところがなく、ようやく倉庫に残っている紙をかき集めて60万枚を印刷できる会社を探し出し、21日までかけて紙の断裁と包装を手作業で準備をして、地震から5日後に、被災地に配る準備ができました。
 22日の朝、赤枠の伝言用紙が満載された4トントラックに、岩崎さんらがヘルメット姿で乗り込み、当時は大阪側からの公共交通機関で最も被災地寄りまで動いていた阪急の西宮北口駅前を皮切りに、西宮で最も大きな避難所だった西宮市立中央体育館、芦屋市役所、神戸市東灘区の青木小学校、灘区役所、神戸市役所、兵庫区などの海岸方面の避難所、長田区方面など、十数か所に用紙を置いて回りました。
 用紙が入った段ボール箱を置いただけでは中身が分からないので見本を張り出すと、すぐに用紙が奪い取られるように持ち去られたとのこと。長田で配り終えたのが午後11時近くで、大阪に戻ったのは午前4時だったそうです。

 この話で、最も感心したのは、まだ大混乱して全体像が分からない段階で「水や食料は誰かが運ぶ」と言い切ったことでした。実際に、阪神大震災で救援の水や食料が届かずに餓死したとか栄養失調になったという話は聞きません。何の備えもないに等しかったわけですが、あの規模の地震なら事後対応でも水や食料は火事場の馬鹿力でどうにかしたのです。広告会社としては、餅は餅屋で何ができるかと発想したところに、「張り紙」というアナログなツールを大量に用意すると言うことに思い至ったわけです。前年のノースリッジ地震のテレビ報道を見ていたとは言え、そこから被災者が何に困るかということに思い至り、被災地内で重宝される伝言用紙を作り出せるという想像力は、さすがプロの技でしょう。

◇アナログの大切さ

 張り紙という一見時代遅れに見えるコミュニケーションツールが、災害時には重要な役割を果たします。阪神大震災当時は、ビルを中心に試行的に行われた建物の応急危険度判定は、04年の新潟県中越地震、05年の福岡県西方沖地震の経験を経て、07年の能登半島沖地震や新潟県中越沖地震では、まだ大きな余震が続く中で判定し終わるという水準まで達しました。被災住民に、余震が続く中で建物に出入りする危険を知らせる判定を知らせるのは、赤、黄、緑の色の判定用紙です。当初は、危険を示すだけだったものが、判定用紙にどこが危険なのかを丁寧に書くことも定着してきました。また、公的な支援や民間の保険などを受ける際に役立つ罹災証明のための被災度調査結果も、建物に張り出されます。

 すべてがダメになってしまったように見える被災地の中で、「注意」を示す黄色の張り紙は当然ながら、赤色の「危険」の判定でも、記述欄に「隣家が倒壊の恐れ」とか「余震で屋根瓦が落下」などと書いてある場合は、建物を壊さなくてもいい可能性を伝えるメッセージとも読めます。もちろん、そのためには詳細な調査が必要になりますが、少なくとも建築士の専門家が来て、概観からでもチェックしたというメッセージであり、動転している被災者にとって次への手がかりを示すことにもなります。

 新潟県中越沖地震の際には、避難所などにエコノミークラス症候群予防のための運動や、感染症防止の手洗い、脱水症状にならないための水分補給などの必要性を訴えるA4のチラシが、地震から3日目に大量に張り出されていたのは、さすが新潟県と感心しました。もちろん、手書きでもメッセージは伝わりますが、印刷された紙が張り出されているだけで、気持ちも落ち着きます。張り紙を普段から大量に刷っておいておくというのは非現実的かも知れませんが、必要になる張り紙のひな形を用意しておき、イザという際にすぐに印刷できるような手はずは、整えておいてよいのではないでしょうか。広報紙の予定稿と同じ発想だと思います。(了)


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