連載・「防災施策と情報提供 災害の影響を少しでも軽減するためにどうすればよいか」(10)

火砕流の犠牲者を出した雲仙・普賢岳で、災害報道のあり方を改めて考える

月刊『広報』(日本広報協会、2008年1月号)

 中川和之 時事通信社編集委員

 災害報道に関わる者にとって、忘れられない日があります。1991年6月3日。長崎県・島原半島の雲仙・普賢岳で、避難勧告地域の中で取材中の記者やカメラマン、地元消防団員ら43人が火砕流に巻き込まれて亡くなった日です。2007年11月、その島原市でアジアで初開催となる「第5回火山都市国際会議」(COV5)が19日から5日間の日程で開かれました。関連行事として災害情報学会や火山学会の研究大会も開かれ、まる8日間、国際会議で議論に参加したり、住民たちから話を伺ったりしてきました。そこで、改めてマスコミ取材の問題点や、行政、住民、専門家との連携のあり方とともに、過剰反応を恐れる行政と科学的正確さで語る専門家の限界など、さまざまな問題点を改めて確認させられました。災害対策のあり方が大きく変わった今でも、同じことがくり返される可能性は残っています。

◇火砕流の怖さ知らず、派手な映像を狙った報道陣、消防団員らも

 1990年11月から198年ぶりに始まった雲仙・普賢岳の噴火は、翌年2月から活動を活発化して降灰が続き、5月15日から土石流が発生して、住民に対して初めての避難勧告が出されました。20日になって火口に溶岩ドームができはじめました。24日に初めての火砕流が観測され、26日の火砕流で治山ダムの作業員が負傷し、火砕流での避難勧告が初めて出されました。
 山頂付近から煙を噴き上げながら山を下ってくる衝撃的な映像はマスメディアの格好の素材となり、避難勧告地域内にありながら、撮影に最適な「定点」と言われた場所には多くの報道陣が集まり、道ばたにタクシーを止めてカメラを山に向けていました。その後、やや規模の大きい火砕流が観測された29日や31日に、九大観測所から危険であるとの警告を受けて島原市が退去要請を出していたのにもかかわらず、6月3日午後4時8分、溶岩ドームの半分が崩壊した火砕流が発生し、定点付近のマスコミ関係者16人、報道陣を乗せるためのタクシー運転手4人のほか、消防団員12人、警察官2人、住民6人、外国人火山専門家3人が亡くなりました。
 記者、カメラマンの所属は、毎日3人、テレビ長崎3人、NHK2人、日本テレビ2人、九州朝日放送2人、テレビ朝日1人、読売新聞1人、日経新聞1人、フリーカメラマン1人。テレビ朝日の記者は、同じ記者クラブにいたことがある知人でした。時事通信社のカメラマンは、29日の大規模な火砕流をファインダー越しにのぞいていて恐怖を感じ、九大観測所からの危険との指示に従って避難勧告地域には入らず、難を逃れていましたが、時事の記者は前日、定点よりもっと奥に入り込んでいたそうです。この日は悪天候で、土石流警戒の取材に回るクルーもいたとのことで、天気が良ければ犠牲者はもっと多くなっただろうと言われています。

 12人の消防団員も、定点から少し下流に下った避難勧告区域内の北上木場農業研修所にいて火砕流に巻き込まれました。一時は下流の安全なところを拠点にしていたのですが、1日に避難勧告が一部地域で解除され、2日に再び農業研修所に戻りました。2日に、一部報道陣が避難住民宅の電源を勝手に使って警察に厳重注意されたこともあり、消防団員は家々を守ろうとして避難勧告地域に戻って犠牲になったとして、マスコミが厳しく非難されました。2人の警察官も、マスコミや消防団に避難を呼びかけに来たところで亡くなっています。
 同僚を失い、自らも偶然死を免れたと言えるテレビ長崎報道部の槌田禎子記者は「マスコミの悪い面があまりにも眼が付いた。12人の消防団員もある意味ではマスコミの犠牲者だ」と、災害情報学会冒頭の研究発表で指摘しています。

◇専門用語の誤解恐れ、消極的に情報伝達

 犠牲者が出る前は、火砕流で死ぬ恐れがあるということを十分意識しないまま、「行政と連絡を取っている消防団がいるから」、「大学にも取材している報道陣がいるから」と互いの存在を、勝手に安心材料にしていたところもあったといいます。研究者が危険性だと指摘しているコメントをニュースで使いながら、それが自らに降りかかるという意識がなかったと、槌田記者も語っています。

 この噴火では、火山活動に関する情報提供のあり方に問題がありました。最初の噴火が始まる4カ月前から群発地震や火山性微動が観測され、噴火の前月には気象庁が機動観測班を派遣していながら、「噴火の可能性は不確実で、社会的混乱を避けたい」として、大学や気象庁が公的に異変を伝えることはありませんでした。
 このため、1990年11月17日に山頂から上がる噴煙を見て、「山火事だ」との119番通報があったほど住民や自治体にとって寝耳に水の出来事だったのです。今では、全国108の活火山すべてを、少なくとも毎月、活動の状況を評価して公表していますが、ハザードマップが作られていた火山がほとんどなかった当時は、地元自治体にすら情報が出されていなかったのです。噴火開始が日中で登山者がいたら、その段階で人身事故もありえたでしょう。その後、九大観測所は、報道機関に観測所を開放して正確な報道を要請するとともに、自治体に対しても積極的に提言・助言していきました。

 一方、火砕流が最初に観測された直後、社会的な混乱を懸念して公表に消極的な議論があったそうです。約9万年前に阿蘇山のカルデラを作った噴火で出た火砕流は、九州を覆って瀬戸内海を超え山口県まで達しています。7300年前の九州・屋久島近くの鬼海カルデラでの噴火は、火砕流と東北以南を広く覆った火山灰によって縄文文化の終焉を招いたとされています。火砕流が発生したと伝えると、これらと同様なことが起こると誤解されては混乱を招くとして、臨時火山情報に「なお書き」で「小規模な火砕流」という表現で伝えるにとどめました。槌田記者は「『小規模』という表現は、不幸な自体を招いた一因」と学会での報告で指摘しています。

 COV5の学術セッション「火山災害のリスク軽減に向けての科学者、行政、報道、住民の連携」で、火砕流という言葉の使われ方の変遷について報告した荒牧重雄東大名誉教授は、小規模な火砕流が観測された1977年の有珠山噴火の際、「防災担当者から『火砕流のカの字も使ってくれるな』と言われた」と説明。「1991年の雲仙・普賢岳でも火砕流という言葉を使うことを非常に抵抗され、私から科学的には適切な『小規模な火砕流』と言えばいいのではと言ってしまった。これが関係者に安心感を与えたのではないかと大変申し訳なく思っている」と、心情を吐露。その上で、「2000年有珠山噴火で、1万人以上の住民が無事に避難できたのは、雲仙・普賢岳の犠牲があったから。我々が忘れていけない経験だ」と指摘しました。

 専門家には通用する科学的な言葉や状況を、ふだんから防災対策に置き換えて置かねばならない努力が、当時は決定的に不足していました。このセッションでは、自治体と研究者が平時から対話を重ねてきていた2000年の有珠山噴火で、避難区域に入る許可を虻田町長から取り付けたテレビクルーらの眼前で噴火が始まり、フルスピードで逃げていた事例を岡田弘北大名誉教授が紹介。2000年の三宅島雄山の噴火の際には、低温だったから大きな被害には至りませんでしたが、一部の島民が火砕流に巻き込まれました。火山研究者同士の情報交換の場だった「ある火山学者のひとりごと」というインターネットの電子掲示板を主宰していたアジア航測の千葉達朗さんが、三宅島噴火でこの掲示板が果たした役割を報告。島民から噴石の写真がほぼリアルタイムで報告され、火砕流の写真も2時間後に伝えられ、巻き込まれた住民のレポートも掲載されて、全島避難に繋がったのです。

 これらの反省は、平時から専門家と自治体がハザードマップ作りなどを通じて、具体的な事態を想定して住民とも連携した対策作りなどを進めるという新しい考え方に活かされ、それが現在の国全体の火山防災のひな形となる富士山火山防災対策つながり、噴火警戒レベルの設定や火山警報などに至っていると言えます。活火山を抱える自治体では、いざというときの避難対策だけでなく、日ごろからの観光も含めて火山とどう付き合っていくか。地元のメディアとも連携しながらの取り組みが不可欠になります。

 今も、砂防工事が続いて通常は立ち入りができない定点を、災害情報学会の研究発表大会の巡検で訪れ、花束を捧げた同学会会長の阿部勝征東大名誉教授は、「火砕流に関する知識を多くの人が持っていなかった。正しい知識で災害に備える大切さを改めて感じた」と話していました。(了)

参考資料:「1990-1995 雲仙普賢岳噴火」(中央防災会議・災害教訓の継承に関する専門調査会報告書)
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