「一人の百人力より、百人の一人力」=どう進めるか、減災の国民運動

東海地震防災セミナー2007

中川和之 時事通信社・防災リスクマネジメントWeb編集長

◇脅しの防災から納得の減災へ

 3年前の8月7日、神戸市灘区にある阪神大震災を記念した「人と防災未来センター」の5階にたくさんの子どもたちがいた。第5回地震火山こどもサマースクール「Mt.Rokkoのナゾ」のオープニングだった。六甲山が一望できる窓の前で、「この風景に何が見えるかな」と投げかけたところ、「山並みが崖っぽい」「標高が急に高くなっている」「海と山が並行」などという声が上がった。いずれも、断層の活動でずれ上がった六甲山の成り立ちを表すにふさわしい言葉であり、私たちが準備したプログラムが子どもたちの感性に届き、二日間が成功裏に終わることを確信した。2日目のまとめでは、参加者から「一人の百人力より、百人の一人力」、「地震は一瞬、恵みは一生」などの分かりやすい言葉で宣言文がまとめられた。
 阪神大震災をきっかけに、専門家の言葉が地元に届いていなかった反省から、地震と火山の学会が共同して、次世代を担う子どもたちに直接働きかけるサマースクールを1999年から始めた。「『六甲山は地震で高くなった山』なのに、地元の人は『神戸に地震はない』と思いこんでいた愚をくり返さないために」と、丹那断層や有珠山、伊豆大島、木津川断層、富士山、六甲山、霧島火山、平塚・国府津松田断層、箱根火山と、地震や火山の現場を舞台に開催。子どもたちと専門家が野外観察や実験を一緒に行いながら、対話を重ねてきた。
 そのポリシーの一つは「脅しの防災はやめよう」ということだ。それは、「明日起きてもおかしくない」という脅しの言葉だけが先行し、予知に過剰 に頼り、あとは逃げるだけの防災しかできていなかった東海地震対策の反省が含まれている。阪神大震災前から静岡県の地域防災計画には、家具固定や耐震の推進、自主防災組織の防災マップづくりがかかげられていたが、実現のハードルが高い対策が進まないのは、実施したいと考えるほどの動機付けがなされないからだ。
 それには正常化の偏見がじゃまをする。日常は変化なく続くことが暮らしの前提になる。車道を走っている車が、いきなり歩道に向けてハンドルを切ってくる可能性を心配しながら道を歩いてはいない。いくら脅されても、人は怖いことを考え続けてはいられない。勝手に「自分は大丈夫だろう」と考えることにしてしまう。それを超えて、希におこる災害に対して行動に移してもらうには、納得したと思える水準まで、防災に対する意識を日常から高める必要がある。そこまでたどり着いて、耐震補強や家具固定という減災の行動に結びつく。

◇適切な災害イメージを持つ

 防災教育や防災意識の啓発は、ほとんどが単純に「災いがやってくるぞ」と脅すことから始まる。もちろん災害は怖い。でも、私は私がそのふもとで育った六甲山を嫌いにはなれない。子供のころから、ボーイスカウトでハイキングやキャンプをしたし、ドライブも楽しく、夜景も最高だ。灘の宮水で美味しいお酒も飲める。住宅におあつらえ向きの南向きの斜面を作ってくれているし、何より、常に緑の潤いを眼にすることができる。上京後は、新大阪に着く前の新幹線の車窓から六甲山が見えるだけでホッとした。震災後の4年間の神戸勤務時代、最初のうちは通勤の電車で、毎日北側のドアの前に立って、窓から山を見上げて嬉しくてにやにやしていた。六甲山の存在とそれがもたらす恵みは、阪神大震災を引き起こした地殻変動の証拠なのである。
 地震火山こどもサマースクールを一緒に進めてきた静岡大の小山真人教授は、東海地震の恵みをこう記している。  「東海地震も静岡県の地形に大きな彩りを与えてきた。東海地震のたびに隆起する場所には牧ノ原台地、日本平などの高台ができ、沈降する場所には駿河湾や浜名湖が作られた。つまり,静岡県を代表する茶、ミカン、鰻などの特産物は、東海地震がつくった土地の起伏によって育まれたと言ってよいものなのである」(静岡新聞・時評2004年8月24日)。
 ここでは書いていないが、浜名湖は津波がもたらした恵みの数少ない実例でもある。
 怖いことは考え続けたくないので、ハードと行政、専門家に頼り切って、自然災害など知らなかったことにして忘れ去る。そのことの無謀さを教えてくれたのが阪神大震災だ。その地の一人一人が、毎日の暮らしの中で、自然とどうつきあうか。「ただ怖いだけ」の場所を大切にして暮らすことはできない。地域を形づくる身近な自然は、豊かな恵みをもたらしつつ、時に災害を引き起こす。災害を引き起こす自然を、勝手に敵対視して遠ざけるのではなく、きちんと向き合ってこそ、その地に暮らすために必要なこととしての減災の行動を行うことにつながる。

◇災いと共生する工夫を重ねてきた

 昨年8月、大磯丘陵などを舞台に行った第7回地震火山こどもサマースクール「湘南ひらつかプレートサイド物語(ストーリー)」で、参加者に提示した5つのナゾの一つが「相模湾と大磯丘陵には、どんな力が働いて、何が起こっているんだろう。それは私たちの暮らしと、どうかかわっているんだろう」という課題だった。2日間の最後に行ったこどもフォーラムで、一人の中学生がこの問に対し、「相模湾の海のプレートに、大磯丘陵の陸のプレートが押されて、大磯丘陵がより高くなったり、もう一つ断層ができたり、地震が起きたりしている。また、そういう被害をもたらすことで暮らしに工夫が生まれる」と発表。昨年の実行委員長だった首都大学東京の山崎晴雄教授は「人類の歴史は、まさに自然災害に対応する工夫の歴史」とこの言葉を絶賛した。
 新潟県中越地震の後、国の仕組みが現況復旧が原則であることに対して、当時の山古志村の幹部は「わざわざ元に戻さなくても、地すべり1個所、たんぼ一枚で、やってきた」と訴えた。山古志の棚田の風景は、そのまま過去の災害史だったのだ。1847年の善光寺地震で地すべりが起きた場所では、今はきれいな棚田の風景をなしている。災害をイメージするときに、単純にものが壊れたり、失われたりするのではなく、長期的にもたらしてきた恵みや、先祖たちが共生してきた歴史も一緒に考えることで、怖くて恐れるだけの対象から、向き合っていける対象に位置づけることができる。

◇どんな相手と向き合わねばならないか

 四半世紀にわたって静岡が向き合ってきた東海地震は、本当に起きるのであろうか。中央防災会議の東南海・南海地震対策大綱は、2001年の段階で「今後10年程度経過した段階で東海地震が発生していない場合には、東海地震対策と合わせて本大綱を見直す」と記しており、その見直しの時期は近づいてきた。単独の想定東海地震ではなく、最悪の場合は駿河湾から四国沖にかけて一度に起きた1707年の宝永地震タイプを考えておかねばならなくなってきている。静岡県にとっては、規模が数倍以上大きい地震を引き受けるより、できれば単独の東海地震のほうが、まだましな相手なのだが、残念ながらそうは行かなくなってきつつある。  過去の繰り返し地震で、東海・東南海の領域と、南海の領域で起こす地震は、同時から最長2年の時間差がある。場所によっては、最初の地震より大きな被害が想定されるため、緊急対応から救援、復興を難しくする。三重県では05年5月に、東海・東南海・南海地震の同時発生と、東海・東南海地震が先に発生し、数時間から数十時間後に南海地震が発生した場合の被害を想定し、時間差があるとより多くの人的被害が生じるとも推計している。後の地震でより大きな被害を受ける地域では、発生するまで「警戒宣言」に近い状態が継続することになる。
 三重県や和歌山県などの自治体担当者らからは、せめて2つめの地震では何らかの予知をという悲鳴のような声が上がり始めている。ただ、陸域から距離がある東南海、南海地震の領域では、東海地震のように直前予知の可能性があるほどのレベルで観測をするのはかなり困難だ。現状の東海地震の予知システムは、そのようなことは想定していない。
 また、高層建物などに大きな影響を与える長周期地震動についても、まだ想定対象にはなっておらず、現状で想定されている被害だけを考えていれば済むわけではない。いずれ、静岡県も備えのレベルを引き上げねばならなくなる。

◇減災のアクションプログラムをより進めるために

 9月1日は、防災の日だ。今年も政府や自治体などが防災訓練や防災フェアなどさまざまな防災関連行事を展開した。私が住んでいる横浜市では、防災の日や防災週間の前後に、町内会などで組織された地域防災拠点運営委員会が、小中学校を使って避難所の開設訓練や資機材の取扱訓練などを行っている。住民が企画立案して実施し、地元消防署は支援と講評に徹するという地域防災の取り組みとしてはかなり進んだレベルにある。しかし、そのメニューは避難所開設と炊き出し実施までで、ここ数年間、変わっていない。要援護者や在宅被災者の支援、避難生活の長期化対応などは手が付けられておらず、訓練がマンネリ化している。
 自主防災活動のマンネリ化は、静岡県で早くから指摘されてきた。自衛隊の図上訓練のノウハウを住民とともに地域防災ツールに仕立てた富士常葉大の小村隆史准教授のDIGを全県的に導入し、災害イメージをもう一歩膨らますところまでは標準化したが、小村准教授自身が、DIGで減災にどうもっていくかが問われた。その中で、減災のカギは耐震化にあると、国レベルに先駆けて取り組んだプロジェクト「TOUKAI(東海・倒壊)−0(ゼロ)」が、どこまで浸透するかがポイントとなる。
 静岡県の自主防災活動推進委員会が03年にまとめた検討報告書には、耐震補強促進の取り組みの事例はなかったが、2年後の活動報告書には自主防災組織レベルでの取り組み報告も入ってきている。TOUKAI−0による耐震補強の助成事業の件数は、06年度までの5年間で6293戸という実績を上げている。06年度は前年を下回っているが、05年並みの実績を積み上げれば来年度末までに1万戸を耐震化するという県の目標達成は可能になってきている。

◇先行した横浜市の難航と市民レベルの取り組みに学ぶ

 一方、耐震化の促進では、いち早く補助制度を制度化した横浜市では、耐震改修の補助事業の実績は伸び悩んでいるままだ。05年度までの7年間で676戸に留まっている。以前から制度自体の使いづらさが指摘されているが、静岡県のように地域の自主防災活動などとの連携は位置づけられておらず、宣言的に「市民の責務」として耐震化を進めるよう求めているだけで、日常的な活動のメニュー化は進んでいない。01年7月には、全国に先駆けて個人住宅の広さ程度までの揺れが推定できる50メートルメッシュの地震マップを作成して公表し、翌年は耐震診断の申し込みは倍増したが、その後はまた減少。地震マップをバージョンアップして、地域で防災まちあるきや地図作りができるような資源は用意したが、熱心だった担当者の異動で地域レベルの取り組みの実践を仕掛けられないまま、宝の持ち腐れ状態になっている。
 その中で、木造住宅を中心に500世帯弱の横浜市栄区亀井町の自治会は、市の地震マップのデータも使って防災学習用資料を作成。最悪の地震を想定すると、町内で66棟が全壊し、5人の死者が想定されるとの試算結果を、横浜市の被害算定式を使って住民に公表している。さらに人口12万人余の栄区内には、区職員が280人(うち区内居住者は数人)、消防職員が100人、8台の消防車、3台の救急車が配備され、それに加えて360人の消防団員と11台の小型消防車の備えしかないことも紹介。区内全体で3900棟の全壊が想定される中で、地元町内に消防車や救急車などが来ることは期待できないとし、阪神大震災の死者の9割以上が住宅の倒壊や家具の転倒で亡くなったという事実を伝えて、「大切な命を守るために『住宅の耐震補強』、『家具の転倒防止』が必要」と訴えている。  具体的な地域の減災活動として、自治会の防災部会のメンバーが、町内の高齢者らの家で家具の転倒防止器具の設置を支援。市の無料耐震診断や木造住宅の耐震改修促進制度も紹介し、現実に改修に踏み切る世帯もでてきているという。

 また、耐震補強の重要性について地域の学習会を積み重ね、安価な耐震工法なども編み出した神奈川県平塚市のNPOが、3年間で82件(予定含む)の補強工事を行っている。これらは、問題を身近なものとして意識することで、対策が進むことの好例だ。
 地域レベルの活動は、一つひとつの取り組みが地味で、ニュースなどで取り上げられることも少ない。ただ、まさに「ご近所の底力」を見せつけるものであり、地域コミュニティが緩やかな競争意識を持って取り組みを進めることができるのではないか。静岡県地震対策アクションプログラム2006の筆頭は、住宅の耐震化の促進で、次が家庭内の地震対策の促進という2つのアクション名が上げられている。目標としては正しいが、この目標を達成するために、正常化の偏見の中に閉じこもらないよう、手を変え、品を変え、身近な家や家具が凶器になる可能性があることを伝えるという具体的なアクションまでは上げられていない。
 確かに、工事などを行うのは住民であり、行政は直接手を出せるものではない。だからといって、 「制度は作りましたが、応募はありません」というお役所仕事の典型で済ませてはならない。行政に集まっている情報を、ていねいに伝えていくことで、住民の意識を変えていくことができる。

 栄区亀井町の自治会や平塚市のNPOが、地域の学習会で活用したのが、NPO法人の「東京いのちのポータルサイト」が作った耐震補強の必要性を訴えるCDだ。「CD説法師」と言われているこの学習素材は、研究者や行政の実務家、市民活動の実践者、私も含むメディア関係者らが、分かりやすく伝える素材を寄せ集めて、03年3月に最初のバージョンを作成。阪神大震災で地震が発生した直後の揺れを再現した「人と防災未来センター」(神戸市)の117シアター映像のサマリー版も、関係者に非営利での公開の許可も取り付けた。04年5月には、耐震補強を勧める絵本「地震のこと はなそう」の制作に協力したり、建築、土木の両学会と耐震化促進をメインテーマにしたシンポを開催。これらの動きは、政府の耐震化数値目標の動きを一気に加速させる結果となったが、それらは地域レベルの取り組みが底支えしたのだ。

◇自然と人、人と人の関係性の再構築を

 終戦直後からの10数年、毎年のように自然災害で1000人を超える死者を出してきた。戦災復興と高度成長によるハードの整備によって、新たな災害を押さえ込むとともに、特別な支援制度がなくても経済成長が復旧・復興を後押しした。幸いなことに、首都圏も西日本も巨大地震の狭間の静かな時代を過ごしてきた。阪神大震災は、これから西日本で始まる地震の活動期の始まりとされ、鳥取県西部地震や能登半島地震などはその現れと指摘される。戦後の高度成長とともに、日本の気候風土を考慮しないで、沼地だったり、元河川敷だったり、氾らん原だったりする場所に、住宅や事業所を安価に作ることが出来るという自由を、公共事業のハードで押さえ込んできた限界が明らかになり、政府の政策も、災害を防ぐ「防災」から、致命的な被害を受けないようにする「減災」にハンドルが切られて数年経った。減災のための国民運動をどう進めるか、中央防災会議に専門調査会が設けられ、私も参加して06年3月まで1年間にわたって議論が重ねられた。
 減災のカギとなる、耐震化の促進と家具固定など建物内の安全を進めるには、なぜ、身近で災害が起きるかを知り、被災とそこからの再建を、事前のコストにどれだけ織り込むかを納得して意志決定することが求められる。減災の国民運動の5つの基本方針の一つを「正しい知識を魅力的な形でわかりやすく提供(良いコンテンツを開発)」とし、減災を自分の課題として理解し、安全のための投資を行ってもらわねばならない。
 そのためには、高度成長の中で行政主導のハード対策に任せてきた自然との関係性を、もう一度作り直すことが必要だ。幸い、私たちは科学の力で祖先より多くのことを知ることができる。何千年とくり返されてきたことを、バーチャルに再現してみせることもできる。私たちの暮らしの時間では止まって見える自然も、ダイナミックに動いてきたことを直感的に理解もできる。地震火山こどもサマースクールだけでなく、いくつもの学協会が意識啓発の取り組みを進めてきている。
 関係性を作り直すのは、人と自然風土との間だけではない。人と人の関係性を経済行為に置き換えることで、効率的、合理的な社会を作ってきたのが私たちだが、災害はその関係性の薄さを突いてくる。暮らしを建て直す際に、家族や親族などの血縁や、地域社会の地縁に加え、企業が福利厚生の一環として社員を支援する「社縁・職縁」が大きな支えになった。郷土史などに残された先人の労苦や、生活に密着した切実な災害体験からは、人のつながり、絆の大切さの重要性が分かる。

◇身近な物語を読んで学ぶ「一日前プロジェクト」

 国民運動の一環として、私も手伝っているのは、「一日前プロジェクト」だ。災害の体験者から、「災害の一日前にさかのぼることができたら、何をしておけば良かったか」などという体験談を聞き取り、イラスト入りの分かりやすいショートストーリーにした。教訓的ではなく、読んだ人が自分で考え、減災のための行動を始めるきっかけを提供したいと願っている。06年度には3つの災害から身につまされる82の物語をまとめた。

ーーー 内閣府・一日前プロジェクトから ーーー

最初は「殿様かお姫様」ばかりの避難所

福岡県西方沖地震(2005年3月) 福岡市 男性(60代)

 避難所に来た皆さんは、最初は殿様かお姫様みたいに、じっと座っているだけなんですよ。私たち校区の役員が対応に追われているときも。同じ被災者なのにね。
 そこで、「元気な方はどうぞ、一緒におにぎりを握ってください」、「お米を研ぐのを手伝ってください」とお願いしたら、若い人もお年寄りも我に返ったように、「それなら」と気持ちよく炊き出しの手伝いをしてくれました。
 あれから、避難所にいる人たちの気持ちがひとつになったような気がします。だから、避難されてきた方々をお客様みたいに然とさせない方策、例えば必要な役割ごとにあらかじめチームを作っておいて、どこに何人配置するかを決めておく。避難者にも作業をお願いするという前提で事前に考えておくことが必要じゃないかと思います。

ーーー 一日前プロジェクト ーーー

 災害は、人と人、人と社会、人と自然との関係性を考えるきっかけになる。日ごろから身近な災害を意識することで、それぞれが社会の中の当事者性を取り戻し、関係性をより豊かにしておく。一人一人にとっては、ご近所に朝のあいさつをすることから始まるのかもしれない。お祭りの準備を手伝うことかもしれない。商店街で買い物をするときに店主と言葉を交わすことかもしれない。もちろん、家族とも災害時にどうするかと話をすることが、日ごろ意識しない家族の絆を深めることになるのかもしれない。家族、地域社会、職場など、さまざまな場の絆を日ごろから少しずつ強くし、いざというときに支え合う。それは、災害大国日本の私たちが、災害文化として築いてきた「おたがいさま」精神ではないか。「カイゼン」を筆頭に、みんなでより良いものを作っていこうとする日本の製造業の文化の背景には、「災い転じて福となす」を繰り返し、さまざまな工夫をこらしながら、豊かな自然と災害との間でうまく折り合ってきた日本の災害文化が浸透しているからではないか。
 災害対策は、誰かがやってくれるものではない。スーパーマンではできない。一人一人ができることをする。それぞれが、「餅は餅屋」で自分の持ち味を発揮し、減災に向けて自分のできることを誠実に行う。「一人の百人力より、百人の一人力」こそがカギなのだ。(了)


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