被災後の暮らしは誰が立て直すか−「おたがいさま」精神は災害文化

月刊時事評論・日本の課題(外交知識普及会、2007年9月号)

中川和之 時事通信社編集委員・防災リスクマネジメントWeb編集長

 84年前に関東大震災が発生した9月1日は、防災の日だ。今年も政府や自治体などが防災訓練や防災フェアなどさまざまな防災関連行事を展開した。私が住んでいる横浜市では、防災の日や防災週間の前後に、町内会などで組織された地域防災拠点運営委員会が、小中学校を使って避難所の開設訓練や資機材の取扱訓練などを行っている。住民が企画立案して実施し、地元消防署は支援と講評に徹するという地域防災の取り組みとしてはかなり進んだレベルにある。しかし、そのメニューは避難所開設と炊き出し実施までで、ここ数年間、変わっていない。要援護者や在宅被災者の支援、避難生活の長期化対応などは手が付けられておらず、訓練がマンネリ化している。その一方で、市内では、高齢者の家具固定支援や耐震改修促進など、災害を減らす「減災」にまで自発的に取り組む町内会も出てきている。それは、実際の災害をどうイメージするかがカギとなる。災害は必ずやってくる。命が失われてしまえば取り戻せない。ご近所の命を助けるには、地域での支え合いは不可欠だ。避難所は自宅ほどは快適ではないし、家を失っても誰かが建て直してくれるわけではない。被災でダメージを受けないように備えたうえで、地域のつながりなどさまざまな絆で支えてもらいながら、暮らしを取り戻していく。日ごろは、誰しもが生活の主人公であり、その人なりに自分で自分を支えて暮らしている。被災後もそうあり続けられるために、災害後の過程をどうイメージして備えておくのかが、災害後の暮らしの再建をスムーズにする。

◇身近な災害死を想定してみる

 全島避難が4年半続いた三宅島・雄山噴火、一時全村避難を余儀なくされた新潟県中越地震、100人を超す死者を出した06年の台風23号や昨年の豪雪災害があり、今年に入っても能登半島地震や新潟県中越沖地震など、阪神大震災以降も、国内で災害は相次いでいる。それぞれに、課題や教訓を残してはいるが、政府や自治体が一定程度機能できる規模の災害だった。一方で、いつ起きてもおかしくない切迫性を持つ首都直下地震や、北日本を除いた日本列島に広範な影響が想定される南海・東南海地震では、深刻な被害が予測され、近年の中規模な災害で可能だった支援のレベルでは追い付かない。法改正の議論が進んでいる被災者生活再建支援法にしても、現時点での国や都道府県の財政支出規模では、現行制度であっても破綻を来すのではと指摘されているように、巨大災害では中規模な災害ほどの手厚い支援は難しい。社会全体のダメージも大きいため、失業などまで含めると暮らしを建て直すためのハードルはより高くなってしまう。

 そのために、まず失うものを少なくする減災の発想が求められる。国として、今後10年間で想定される死者を半減し、経済被害額を4割削減する減災目標を達成するために、建物の耐震化率を現在の75%から9割に、家具の固定率を現在の倍の6割に引き上げるという目標を掲げた。
 この国の政策を、一人一人の暮らしでどう実現させればいいのか。木造住宅を中心に500世帯弱の横浜市栄区亀井町の自治会は、自作した防災学習用資料に、最悪の地震では町内で66棟が全壊し、5人の死者が想定されるとの試算結果を、横浜市の被害算定式を使って住民に公表している。人口12万人余の栄区内には、区職員が280人(うち区内居住者は数人)、消防職員が100人、8台の消防車、3台の救急車が配備され、それに加えて360人の消防団員と11台の小型消防車の備えしかない。区内全体で3900棟の全壊が想定される中で、地元町内に消防車や救急車などが来ることは期待できないとし、阪神大震災の死者の9割以上が住宅の倒壊や家具の転倒で亡くなったという事実を伝えて、「大切な命を守るために『住宅の耐震補強』、『家具の転倒防止』が必要」と訴えている。具体的な地域の減災活動として、自治会の防災部会のメンバーが、町内の高齢者らの家で家具の転倒防止器具の設置を引き受けている。

 横浜市は、01年7月に全国に先駆けて個人住宅の広さ程度までの揺れが推定できる50メートルメッシュの地震マップを作成して公表し、耐震診断の申し込みが倍増した。まだ、同程度の細かさの地図は、名古屋市、京都市、世田谷区、渋谷区などでも実現している。洪水についても、国管理の河川だけでなく、市町村管理の中小河川のマップも作られてきている。ご近所の被災を具体的にイメージすることが、備えのきっかけになる。リスクを認識し、自らを守るとともに、周囲にも関心を持つきっかけになる。自分が何もできないまま、お隣やご近所の人が災害で亡くなってしまうことを、許容できるほど人は冷徹ではないはずだ。

◇一方的支援は被災者の力を削ぐ、受援力を鍛えることも重要

 今年7月に発生した新潟県中越沖地震の被災地で、驚いたことがある。自衛隊の炊き出し支援だ。地震から28日間で延べ87万食の給食支援を実施し、ピーク時に1万2千人の避難者に食事を提供する主力となった。一方で、新潟県中越地震の際は、ピーク時の避難者が10万3千人と一桁多く実施期間もほぼ2カ月だったが、給食支援は115万6千食にとどまっている。確かに冷えたおにぎりより、温かい炊き出しは大歓迎だ。ライフラインが復旧しない間は、給食の支援が必要だということも理解できなくはない。
 ただ、気になる話をいくつか耳にした。「魚が焦げている」など食事の内容へのクレームを付ける人がいたり、自衛隊が炊き出しの配給を手伝う地元中学生に対しても文句を言う住民がいるという話まで聞いて、違和感を通り越して支援の仕方が間違っていることに気付いた。カセットコンロも配給され、買い物もできるようになっているにもかかわらず、制服自衛隊員が大量に作り続ける食事が振る舞われていることが、住民の依存心を強めて生活再建への意欲を削いでしまうことに気付いていないのだ。ボランティアなら、時にありがた迷惑なこともある善意を、炊き出しと一緒に受け取ってあげるというキャッチボールが成立できると言えなくはないが、税金で養われた制服自衛隊員の炊き出しでは、一方的なサービスに見え、毎日続くうちに、当然の権利のような気になる。中学生へのいちゃもんは、何かと文句の多い関西人が被災した阪神大震災でも聞かなかった。

 中越地震の際、小千谷市と地元の鮮魚商協同組合が、地震後2週間目から市内の業者で手分けして弁当を作ったことのユニークさに気付いた研究者が、柏崎市の鮮魚商協同組合にこの話を紹介。市内の飲食店やすし店なども協力し合って弁当を作るプロジェクトは実現した。残念なことに、復旧工事の関係者向けに販売され、災害救助費で購入される被災者向けの主力にはならないまま、自治体は最後まで自衛隊に依存した。地元が地元の住民に役立つことができれば、もっと互いに励みになったであろうに、と思う。

 阪神大震災の2年前の北海道南西沖地震の際、大津波に襲われた奥尻島青苗地区の住民が、被災直後から手厚い救援を受け、全国からの義援金で全壊世帯には1千万円近い義援金などが配分され、基金も作られた。青苗地区ほど救援の手が届かなかった島内の別の地区では、被災者自身が遺体の捜索にも参加し、当事者として復旧・復興に取り組んだ結果、半年後には漁を再開できたという。島内では、新たな支援策をあてにする青苗地区の住民に対して「地震病」という陰口まで言われたと聞く。一方的に支援を受ける側に置かれてしまうと、被災者役割を演じさせられ、支援者に依存せざるを得なくなるのだ。

 一方で、被災側が支援を拒絶するケースもないわけではない。自らの置かれた状態が、第3者の支援を必要としているかどうか、冷静な判断ができないのが大災害だ。自己の限界を見極め、ダメにならないうちに支援を受け入れる「受援力」をどう鍛えるかも大切だ。ふだん、それなりにがんばっている町内会や自主防災組織にありがちだが、ギリギリいっぱいで避難所運営をし、内側の弱者への配慮まで気が回らないこともある。わずかなプライバシーを確保するための間仕切りを、運営側の視点から拒否するケースが少なくないのも、避難所運営の余裕のなさだろう。地域での日常の問題解決能力に自信を持っていたとしても、災害時には限界があることを認識し、「困ったときはお互いさま」を受け入れられるような構えも必要になる。

 阪神大震災に限らす、被災直後の困難な状態を一緒に乗りきった連帯感が、「災害ユートピア」という感情を被災地にもたらす。特に阪神の時は、行政の限界が明白だったこともあり、公に過剰に依存せずに、ボランティアなど共助の支援を受け、被災者同士が連帯して、生活の再建を図っていった。震災からしばらくの間、犯罪件数は減少したのは、単に警察官がパトロールを増やしたからというだけではないだろう。関東大震災の際には直後に急増したという民事訴訟も、阪神間では地震の前よりも少なかった。弁護士会が実施した10万件もの法律相談で、お互いさまの気持ちで乗り切れる知恵を知り、法的な争いにまで持ち込まずに済んだと弁護士会では分析している。

◇社会に新たな絆を紡ぎ出すきっかけに

 終戦直後からの10数年、毎年のように自然災害で1000人を超える死者を出してきた。戦災復興と高度成長によるハードの整備によって、新たな災害を押さえ込むとともに、特別な支援制度がなくても経済成長が復旧・復興を後押しした。幸いなことに、首都圏も西日本も巨大地震の狭間の静かな時代を過ごしてきた。阪神大震災は、これから西日本で始まる地震の活動期の始まりとされ、鳥取県西部地震や能登半島地震などはその現れと指摘される。戦後の高度成長とともに、日本の気候風土を考慮しないで、沼地だったり、元河川敷だったり、氾らん原だったりする場所に、住宅や事業所を安価に作ることが出来るという自由を、公共事業のハードで押さえ込んできた限界が明らかになり、政府の政策も、災害を防ぐ「防災」から、致命的な被害を受けないようにする「減災」にハンドルが切られて数年経った。

 それは、これまでのような右肩上がりの成長を前提にした公共事業万能の時代ではないという公の部分のパラダイムチェンジとともに、個々の生活者も暮らし方を変えていくことが求められる。
 なぜ、身近で災害が起きるかを知り、被災とそこからの再建を、事前のコストにどれだけ織り込めるか。一人一人が避難しないで済む暮らしを実現するために、建物の耐震化し家具を固定して家を安全にし、高層マンションなら管理組合で備蓄して上層階での難民化を避けられないか。津波常習地では海の近くの便利さは我慢しつつ、津波避難ビルになるような共同住宅を増やせないか。洪水や土砂災害を減らす山間地の管理コストを都市住民が分かち合うために、川の上流と下流での交流などを進めて方策を探れないか。火山の周囲では、くり返されてきた過去の災害を学ぶ火山ツーリズムを観光に生かせないか。これらは、高度成長の中でハード対策に任せてきた自然との関係性を、もう一度作り直すことだ。幸い、私たちは科学の力で祖先より多くのことを知ることができる。何千年とくり返されてきたことを、バーチャルに再現してみせることもできる。私たちの暮らしの時間では止まって見える自然も、ダイナミックに動いてきたことを直感的に理解もできる。

 もちろん、関係性を作り直すのは、自然風土との間だけではない。人と人の関係性を経済行為に置き換えることで、効率的、合理的な社会を作ってきたのが私たちだが、災害はその関係性の薄さを突いてくる。暮らしを建て直す際に、家族や親族などの血縁や、地域社会の地縁に加え、企業が福利厚生の一環として社員を支援する「社縁・職縁」が大きな支えになった。多くの人に、そのような「縁」があるわけではない。
 阪神大震災の応急仮設住宅で、亡くなっているのを気付かれないままの孤独死が問題になった。家族を失う、家を失う、職を失う、地域を失うという厳しい災害の現実の前に、支えてくれる「縁」がない人がいた。アルコール浸りになり、仮設に引きこもって周囲とも接点を持たない中高年の男性などが多くいたという。仮設住宅を支援していたボランティアらが、プライバシーの壁を行政や警察、消防、生活アドバイザーらと徐々にネットワークを広げ、孤独死を出さない取り組みもあった。
 福祉関係者は、現代社会の福祉ニーズは社会との関係性がない人の絆作りだという。守らねば、支えねばならない従来の弱者の概念を超え、社会と何らかのかかわりを創り出すことが福祉だという。能登半島地震や中越沖地震で目立つボランティアの活動に、「足湯」や「行茶」がある。何か、役立つことをするのではない。ショウガ湯に足を浸してもらい、学生たちが手のマッサージをする。そこで、ゆっくり話を聞くのが足湯。行茶は、避難所などでお茶のサービスをしながら話を聞く。ボランティア活動のニーズを調べる役にも立っているのだが、基本的には、何かをしてあげるために聞くのではなく、ただ気持ちを寄り添わせることがポイントだ。お坊さんによる活動もあるというのもうなずける。災害でこわばった気持ちを、少しずつほぐし、自らが抱える難題を話せるところまで寄り添う。問題解決は第3者にはできないが、自己認識をすることは、その一歩になる。その問題自体は、災害以前からあったことかもしれないが、より困難な状態になることもあるだろう。そこに本人自身が向き合おうとすれば、さまざまな社会的な支援の仕組みも活用できる。日本の社会システムは、そんなに捨てたものではないが、それに依存するのではなく、自律的に支えてもらうのは簡単なことではない。

 災害は、社会との関係性をつなぎ直すきっかけになることは間違いない。さらに、日ごろから身近な災害を意識することで、それぞれが社会の中の当事者性を取り戻し、関係性をより豊かにしておくことができないか。それは、ご近所に朝のあいさつをすることから始まるのかもしれない。お祭りの準備を手伝うことかもしれない。商店街で買い物をするときに店主と言葉を交わすことかもしれない。もちろん、家族とも災害時にどうするかと話をすることが、日ごろ意識しない家族の絆を深めることになるのかもしれない。家族、地域社会、職場など、さまざまな場の絆を日ごろから少しずつ強くし、いざというときに支え合う。それは、災害大国日本の私たちが、災害文化として築いてきた「おたがいさま」精神であるはずだ。(了)


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