被災地の底力を引き出すために

国際開発ジャーナル2005年2月号

中川和之(時事通信社)

 被災地では、がれきの下からの救出は一刻を争い、重傷者の手当ても重要だ。命をつなぐためにも、救援物資や水・食糧の供給、シェルターの提供は不可欠だ。しかし、これだけでは、被災地で生き残った人の暮らしを立て直せない。家族を失った人であっても、悲哀にくれてばかりはいられない。被災によって、社会のポテンシャルが大きく下がっているなかで、暮らしていく家を拠点に、生活の糧を得るための仕事をしなければならない。

 効率優先の初期段階の救援から、被災者一人ひとりを視野に入れた非効率にも見える暮らしの再建支援にどう切り替え、長くかかる復興の過程をどうやって支援していくのか。被災地では、政府や自治体、住民が、協力しながら、3年、5年、10年先を見据えた復興方針を作りだしていくことが、外部支援はこの方針の実現に向けて最大限の協力をすべきだろう。そこでは、なにより地元機関を含む被災地住民が、難局に立ち向かう意欲を持って初めて、支援は役に立つ。1995年の阪神大震災以降、NGOや被災地住民らが取り組んだ災害救援から、日本の果たす役割を考えてみた。

救出の主役は地域住民だった

 阪神大震災発生直後の段階では、建物の中に閉じこめられた人の8割は、外部のボランティアではなく家族や近所に救われた。地元の大工さんが専門知識を活かし、一工務店当たり平均約6人を救出した。自治体の消防力が不足するなかで、工場内の消防隊が地元の住民と一緒に町内の火事の延焼防止に活躍していた。被災地は、持てる力で出来る限りのことはした。

 150万人を超える国内の災害ボランティアに加え、被災地を驚かせたのは、最終的には90を超える国・地域から寄せられた国際救援だった。アルジェリアから贈られた大きな90張りの砂漠用テントは、神戸市西区の仮設住宅でふれあい喫茶として使われ、その後の仮設の集会施設設置につながった。世界中の人たちの支援の心が、復興への励みになった。

KOBEから海外へ

 その年の5月、ロシアのサハリンで起きた地震の際には、NGOの呼びかけで計70トンの衣類やカセットコンロなどの物資などが神戸から送り届けられた。神戸からの海外災害救援活動はその後も活発化し、余剰物資を使った支援から義援金による現地購入方式、現地NGOとの連携支援と、回を重ねながら変化していった。

 アフガニスタンの地震被災地ではブドウ畑再建の協同組合を支援し、インドやアフガニスタン、イランでは、ネパールのNGOや国連地域開発センターなどと協働で、耐震補強を訴えるシェイクテーブルテストで減災にも取り組んでいる。これらはすべて「被災地責任」だと震災後にできた神戸の災害救援NGOは言う。(2003年6月、アフガニスタンのカブール大で行われたバネ仕掛けのシェイクテーブルのワークショップ)

災害大国日本の果たす役割

 支援を受け入れると言うことは、単純なことではない。自らの力不足を素直に認め人に委ねるということであり、地元政府や住民の尊厳を損なってしまえばやる気をスポイルしかねない。災害からの復興に向けて地元に最も必要なのは、難局に立ち向かう意欲であり、外からの支援はその意欲をエンパワーするものであることが求められる。

 阪神大震災以降、日本では上意下達型の自主防災ではなく、地域住民やNPOなどの自発性によるさまざまな地域防災力向上の取り組みが進んできている。世界中のマグニチュード6以上の地震の2割が発生する日本からは、被災や災害対策の経験を交流させるというような視点で支援ができないか。たとえば、今世紀半ばまでに必ず来る南海・東南海地震の想定被災地と、今回の被災地とをつなぎ、互いにエンパワーしあう息の長い支援ができないか。

 「被災地責任」とは、「困ったときはお互いさま」の言い換えでもある。先進国による上からの支援ではなく、同じ被災経験を持つ横からの支援。この視点での救援は、日本しか果せない役割だろう。


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