地震取材を一変させた先駆者、そしてなゐふるml生みの親ー菊地正幸教授

月刊地球号外45「菊地正幸教授ー想い出と業績」(2004年4月)

中川和之 時事通信社

 かつて、大きな地震が起きた後の科学取材は、直後の段階ではあまりデータがなく、研究者に直接取材しても、せいぜいMの大きさや震源の深さなどからその地で起こる地震の一般的な傾向のコメントを得たり、過去にその付近であった地震の例を聞くのがせいぜいだった。こちらの知識レベルが低かったこともあり、東大地震研究所の廊下をうろうろしながら、先生方に断片的な解説を受けたりして、次に開かれる地震学会大会で発表されるさまざまな研究成果を記事にしていた。観測データの解析に時間がかかることだけでなく、研究者の方々が成果をまとめていくタイミングは、学会大会を見据えているため、それ以前にまとまった形で示されることがなかったからでもあろう。菊地さんは、その取材の仕方を変えさせた先駆者だった。(菊地さんが生みの親でもあるなゐふるmlのルールと同様に、ここではさん付けで呼ばせて下さい)

”ネタもと”としてのEIC地震学ノート

 横浜市大時代から、YCU地震レポートの存在は、マスコミ記者に知られており、手元の記事クリッピングを確認すると、兵庫県南部地震が発生した1995年1月17日も、まだ菊地さんもデータが得られていない午前中の段階からのコメントが記事になり、YCU地震レポートに基づく記事は翌日の朝刊に掲載されている。21日になって、かなり詳細なメカニズムについて解析結果を出し、各新聞社がそろって記事にしている。
 兵庫県南部地震の後、政府の地震調査委員会が発足し、大きな地震の後は数日内に臨時委員会を開いて専門的な検討をする体制が作られたが、それ以前は、どんな地震だったのかについては、個人的な研究者の努力に負う所が大きく、95年の記事クリップには、サハリンの地震、喜界島南東海域の地震などで、菊地さんのコメントを読むことが出来る。私自身は、震災の年の春以降、厚生省担当などでしばらく地震担当から離れたが、後任の記者からは「まだ、インターネットでの菊地教授の分析しか材料がない」、「週末の地震なので、EIC地震学ノートがすぐ出ない」など、よく菊地さんの話を聞いた。
 最近では、多くの研究者が、観測の速報的な解析結果を自らのWeb上に公表するのがあたりまえになってきたが、菊地さんは、Web上でのEIC地震学ノートの公表を通じて、専門家自身が社会に速報していくメディアの先駆けだった。

新地震予知研究計画でも、取材の標的に

 98年5月に発表された地震学者有志による「新地震予知研究計画」のまとめ役を務めておられた菊地さんは、測地審議会の7次予知計画のレビューがメディアの特ダネ合戦の標的にされ、まだ途中経過の段階でミスリードとも言える記事が出されたりすることを目の当たりにしながら、今後の日本の研究計画の方向が誤って伝えられないよう、心を配っておられた。
 忙しい最中に研究室を訪れると、いやな顔ひとつせずに現状の議論を解説していただいた。何でもラベル貼りがすきなマスコミ的には、予知研究批判派と見られていた菊地さんから、ていねいにさまざまな議論のポイントと、方向性について解説を受けることで、記者のはやる気持ちと、他社の特ダネへの疑心暗鬼を押さえることができたのだろう。こういう働きは、研究者仲間には見えない部分だろうが、無用の混乱を避けられたのは、菊地さんの縁の下の力持ち的な真摯な対応があったからではないかと、私は考えている。
 新地震予知研究計画をまとめる過程で、報道関係者もオープンにして東大地震研で開かれた中間報告的な研究発表会が開かれた。ディスカッションの中で、研究計画を議論するためのyotikenkyuというメーリングリストに、希望する報道関係者も参加して意見交換したらどうかと、私が提案し、その場では多くの研究者の賛同も得られた。
 マスコミ側からは、「mlからは直接記事にせず、必ず本人に直接取材する」というような自主ルールの提案もあったが、最終的にはメーリングリストの発足段階から、そういうルールだったら別だが、途中からの参加は困難と言うことになってしまったが、ここでも菊地さんが間をつなぐ役割を果たしてくれた。

yotikenkyuからnfmlへ

 当時、菊地さんは2代目の日本地震学会広報委員長だった。97年9月に弘前大で開かれた秋季大会と同時に開催された第3回目のマスコミ関係者との記者懇談会で、メーリングリストのことが話題となり、研究者側からは「電子メールをそのまま記事として使用される不安から、mlでの自由な議論を妨げるのではないか」という一方で声が紹介される一方、マスコミ側からは「『mlで流れている電子メールを直接記事にしない。記事にする場合は必ず本人に直接取材する』という了解を徹底すれば問題ないのではないか」という意見が交わされた。
 最終的に、菊地さんの英断によって、マスコミと研究者の間の了解のとれたメンバーで構成する新しいml設置について、広報委員会で具体的に検討することとなった。これが、今のなゐふるメーリングリスト(nfml)の出発だった。
 その後、同年10月の学会広報委に、私と共同通信の方の2人がオブザーバー参加し、私から他のmlでの状況や規約などを紹介。広報委員会が管理者となって、「ないふるML」を発足することを決め、菊地さんと共に規約案を作ることになった。地震研のサーバー資源を使い、地震研の山中佳子さんが登録管理の担当になって、97年11月、第1期のnfmlがスタートしたのだった。

 当初は、mlの世話人を置かなかったため、言いだしべえとして「押しかけ世話人」を自称して菊地さんとDMを交わしながらml運営のお手伝いをしていたこともあり、菊地さんから広報委員に指名され、2000年1月から再スタートした民間プロバイダーを使った現在のnfmlへとつながったのだ。
 記者だからと特別視されることもなく、同じ視線で議論を交わせた菊地さん。また、横浜市に住むものとしては、数少ない地方行政や住民への理解をもった菊地さんに、地元でもう一働きも、ふた働きもして欲しかった。私にできることは限られているが、あなたの投げたボールを少しでも受け止め、メディアの人間として、また横浜市民としての務めを果たしていこうと思っている。(了)


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